蕾が花開こうと願うまでは[雅8:4]

蕾が花開こうと願うまでは[雅8:4]

聖書の中で、解釈の立場を決定づける「一巻」は『雅歌』であろう。この巻はそのような性質上、長き神学史において無数の解釈を生んできた。しかし、私は今なお続く議論に終止符をうつべく「非常にシンプルな」読みを提示できたらと思う。その注目点は“被造物”である。

ご存知の通り『雅歌』というタイトルは「歌の中の歌」という意味からきている。じっさい、神の霊感を通して描かれたこの詩を越えるものは、この世に存在しない。そこで私が注目したのは「この8章にわたる詩がこれほど美しいのはなぜか」という“自然な”疑問である。その答えはじつに明白。直喩が多用されているからだ。しかし、この意味を探る過程で摂理を曲げようと生じた私の信仰的な濁りは、神の真理に反して美しくなかった。

私の経験上、聖書解釈が分かれる場合、その箇所には非常に重要な鍵がある。この経験則そのものは間違っていなかったものの「なにかが隠されているはずだ」とこの歌を味わいもせずに深読みし、疲れてしまった私は栞を使わずに巻を閉じてしまった。ふたたび開くまでを数えると年単位の話になるかもしれないが、霊的な渇望にまいって癒しを求めた私は、花嫁にアプローチをかけるがごとく、ただ素直にその語るところをきいてみようと再び手をのべたのであった。するとどうだろう、『雅歌』を手放した“浮気者”の眼前に広がったメッセージは決して謎めいたものではなかったと気づく。この巻は「愛の美しさ」をじつにストレートに表現したものだと感じたのである。

そう、この書が美しいわけは、聖書を貫く「愛を歌っているから」であり神が創造した「“被造物そのままのかたち”で表現しているから」であった。つまり『雅歌』は〈神の創造における本来の性質に基づく描写が共通認識されることで“この上なく美しい歌”が成立していること〉が、単純にして最大、明瞭にして美そのものなるメッセージだったのだ。つまり、『雅歌』は神の創造秩序を讃美したものであり〈我々が「神の栄光をあらわす」がごとくに被造原理を用いるとき、その祝福が美しさとして表れる〉ことを教えている。それはとりわけ性道徳について「いたずらに掻き立てない」ようにと適用できる。

ソロモンの知恵に並び立つ人間はおらず、彼は植物学にも通じていた。花々をはじめとする神の作品が、生来の性質通りに描かれることで放たれるこの歌の美しさは、誰しもが受け入れざるを得ない。ジェンダー論については、私自身が体験的に語れないので触れることはできないが、「相手のことを愛している」のが、自然な愛に基づいているかを各人が御霊の導きによって吟味すればよいのではないだろうか。「聖書は同性愛を禁じている」と断言して神との和解にいたる道をいきなり閉ざしてしまう説教は順番錯誤のように思われる。霊解や諍いは聖書を遠ざける。聖書をナチュラルに受け取ることで我々は愛なる神の美しさを知る。そして、その確実な道は祈りのうちにある。聖書を御心の通りに受け取れるよう、各々の状況に応じて導かれるように願う。知恵を求めたソロモン王のような熱心さによって。

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