ダビデと選択肢[Ⅰ歴21:10-13]

ダビデと選択肢[Ⅰ歴21:10-13]

人間はどのようにして神の御手に導かれるのか。『創世記』から明らかに連ねられた人間の[自由意志]であるが「全知全能の神から自由な意思決定を与えられる」とは、どういうことだろう。もし、人間が意思を行使する結果を神が存じないとすれば「神は全知ではない」ことになってしまう。かといって、神が我々の意思を司っているとしたら「人間は全能者の“操り人形”なのか」という不信者たちの誤解を覆せない。

では、この命題はパラドクス的な葛藤なのかというと、じつはそうではない。『歴代誌 第一』には、ダビデ王に関して、ヘテ人ウリヤの件を扱っていないけれども“人口調査”の罪はしっかりと書かれている(したがって、ダビデ王を名君として全肯定しているわけではない)。ダビデは神から与えられた三つの選択肢のうちで「神の手におちる(裁かれる)」ことを選んだ。彼自身が弁護したように、命令した王ではなくイスラエルの民が打たれることは一見すると不条理に思える。けれども、摂理的な観点から俯瞰すれば、この点にこそ“真の王”たる神から我々へのメッセージがある。

神は、ダビデがどれを選ぶか“全知”のうえで、三つの選択肢を用意し「王自身に選ばせる」ことによって、人口調査に加担した民を“全能”なる力によって打たれた。この出来事は「神は決して気まぐれでない」ことを表す。ダビデが何を取るかご存じのうえで、民に対して妥当である裁きを提示し、彼に選ばせている。王政樹立の前にサムエルに言わせたように「神こそがすべてを治める王である」ことがわかるだろう。つまり、人間の自由意志を神の全知全能による予定的な“統治”(支配という表現より伝わりやすいだろうか)は〈神が予定的な選択肢を複数用意したうえで、人間が意思を行使して選び取る〉ことによって“計画的かつ自由に”成り立つということだ(驚くべきことに、神は矛盾律のような事象さえも御手に治めておられる)。それでも、イスラエルの民が打たれたことに首をかしげる人がいるかもしれないが「選民が果たした役割のうえに、我々の自由が示されていた」ことを忘れないようにしたい。神の御心に沿って自発的(能動的)な信仰を選び取れるように。

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