十全霊感[Ⅱテモ3:16]

十全霊感[Ⅱテモ3:16]

聖書の正典66巻は、すべて神の御言葉である。パウロ書簡を聖書の一部と認めないとする危険な論者がいたりするが「聖書が神の霊感による」ことを『テモテへの手紙 第二』で明言したのは他ならぬ使徒パウロである。ペテロも自身の手紙においてパウロ書簡の権威を認めているし、たとえば『使徒の働き』には後続の書簡と福音書を繋ぐという役割がある。

であるから、かつてのコリント教会のようにキリストによるパウロの使徒職を疑うのは誤りであり、そのような人は自省する必要があるだろう。「聖書が神の霊感による」という文言が一節ぶん欠けただけで、聖書の意味が変わってしまう。だからこそ、“聖書全巻が違うことのない神の御言葉である”という事実から離れてはならない。

もう一つ、重要な証がある。パウロが“正典がかたちになる前の段階で”「聖書は神の霊感による」と言っていることである。聖書が神の御言葉である以上、使徒もまた言葉を“預かった”わけであるが、使徒パウロには「聖書がいまのかたちになること」がわかっていたことになる。つまり、教会史の初期に論争はあったけれども、その過程を経てパウロの“預言”が残っている事実は、神の御心(ご計画)の成就だということだ。

「聖書の一部は神の言葉ではない」という立場をとる者がいたら、その人は当然ながら聖書信仰には立っていない。ではそのような人は何を信じているのだろう。聖書の権威を証するのは、預言の成就である。つまり、“人間に過ぎないけれども神に導かれた人々”の証言が整合性を持っているところにある。それは、“引照”にも明らかであろう。聖書の神性を否定する人は、自分の発言をどのように裏付けるのだろうか。そこに御霊が共におられるなど私には到底、思えない。

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