この概念は『テサロニケ人への手紙 第一』の4章16-17節を根拠とするものだ。いつ[携挙]が起こるのかについては諸説あるが、最も聖書的であるとされるのは[患難期前携挙説]である。なぜかというと、『ヨハネの黙示録』の4章から先に「教会が登場しない」という解釈が、いちばん終末論を正確に受け取っているとされてきたからだ。
しかし、そもそも[携挙]の根拠となるIテサ4:16-17を字義的に(文字通り)受け取れば、キリストの再臨まで[携挙]は起こらないはず。このことが意味するのは『ヨハネの黙示録』の4章以降で教会が登場しないことには「携挙以外の理由がある」ということである。
実際に2-3章で“教会”が登場するのは事実だからして、そこに注目して再解釈する必要がある。そうすると有力な説として登場するのは「黙示録2-3章で登場する七つの教会は、教会の七時代(紀元30年〜現代の七区分)を表している」という解釈だ。それはつまり、黙示録が“終末預言の書”であると同時に、そのような書として後代に充てられた“終末に際する書簡”であるということ。ようするに、「黙示録の冒頭に教会が登場したのは、書簡として宛先(後の時代)を示すためであった」という神の意図である。
だが、そうだとすれば、なぜ[携挙]が必要なのだろうか。その答えは、[千年王国]にあると現状で私は考えている。キリストの再臨のあとに[携挙]が起こるという時系列でゆくと、[携挙]は[千年王国]の前に起こり、信徒は[千年王国]の後の世界に“時間的にワープする”ことになる。そもそも「再臨のキリストによる地上の千年間の統治である[千年王国]がなぜ必要か」という疑問に対する明確な答えはなかったが、この推論で考えると「[携挙]された信徒が向かう[神の国]の成立において、患難期に取り壊して再生される期間として千年かかる」との説明が可能になる。よって、我々は[携挙]に希望を置くのではなく[神の国]を待ちわび、だからこそ、いっそう伝道に励む必要があると言えよう。
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