見つめる御目[Ⅰサム16:7-12]

見つめる御目[Ⅰサム16:7-12]

サウルが霊的な王位から退けられ、サムエルを通して、次なる王が選ばれる。預言者はエッサイの家を訪れ、七人の兄弟たちから神の用意なさった器を選ぼうとした。熟練の預言者であるサムエルもまた、最後の士師,最初の職業的な預言者,キングメーカー.というじつに大きな召しをうけた人物だった。しかし、彼の目をもってしても「わたしは容姿では選ばない」と神から諭されている。彼ほど老練な信仰者であっても、神の御目から眺める世界が、わかっていなかったのである。

サムエルはエッサイに「あなたの息子はこれで全員ですか」と尋ねると「末の弟が残っています」という返事があった。そうして紹介されたダビデは“容姿が立派だった”。結果的には姿の立派な若者が選ばれたわけだが、人間の見方と神の俯瞰はやはり違う。ここには神の御目が我々の考え方とどのように違うのか、そのヒントがある。

例をとって考えてみよう。ある男性が「僕は容姿で伴侶を選ばない」と言っていたところ、美しい女性と結婚したとしたら、彼の言葉は真実であるか。彼が普段から誠実な人だったとしたら、相手の女性には内面の美しさに裏打ちされた容姿があったということかもしれない。では、神が「わたしは容姿で王を選ばない」と言ったうえで、美しい若者を器としたら、どうだろう。やはり神にも人間的なところがあるのか、いや、それは“否”である。神は「誠実」という概念そのものであられる。したがって〈神の御目による結果は、前提と絶対に変わらない〉のである。これはどういうことか。

もし、「容姿で王を選ばない」と仰せられる神が、見た目があまりよくない者を選んだとしたら「なるほど確かに」となろう。しかし、先のように宣言なさった神が、そのうえで見た目の優れた者を選んだとしたらどうなるか。人間的な考えでは見落としがちだが、この場合、なんと「この若者“こそ”は霊的に相応しい」となるのである。とくに未信徒の人には,神の論理として、以下のテーゼ(‐A)が成り立つ.ことをよく確認してもらいたい。つまり,神は容姿では選ばない/内面でみる→容姿が美しい/神は内面でみている(‐A).となり、神によるダビデの選びは結果的に「この若者は内面“こそ”が美しい」事実がかえって強調される。この論理は、神が唯一であり最高善であるからこそ、通る真実だ。我々の捉える景色は常に不完全だからこそ、神がご自身の義を立てることを愛ゆえに願っておられることを覚えたい。人間に注がれる神のまなざしは、驚くべき恵みにあふれている。

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