聖書で最も難解な箇所の一つは「アブラハムがイサクを捧げようとするシーン」であろう。ここはキリストによる救済論に直結するからして「神は残酷だ」と早まって聖書を閉じてしまうと、すべてが台無しになるといっても過言ではない。信徒の多くは「ここでアブラハムは、イサクを捧げなくて済んだけれど、父なる神は、子なる神であるキリストをじっさいに捧げたのだ」との説明ができることだろう。しかし、未信徒の人々が引っかかるのは「この試練をアブラハムに課すのは“人道的”ではない」という心情ではないだろうか。つまり、信徒がすべきは「神がアブラハムに課した試練は“人身供犠”の類ではない」ことの言明である。「当時、人間を捧げることは律法によってまだ戒められていなかった」とする解説もあるが、バアル礼拝をなにより忌み嫌っている以上、神が人身供犠をアブラハムに課すことは(止めるのが前提だとしても)あり得ないことだ。
では、ここから逆の発想、すなわち「神はアブラハムにイサクを絶対に捧げさせたくなかった」という観点に立ってみるのはどうか。-神が「わたしは人身供犠(の類)を絶対にしない」と表明するためには「人身供犠を“させなかった”」という既成事実をつくる必要があり、そのためには命令が先行していなければならなかった-という論理。つまり、神がイサク(から連なるイスラエルの民、ひいては異邦人)を「捧げさせたくない」ことを最大に表現するためには、アブラハムに「息子を捧げよ」と告げたうえで「捧げなくてよい」と断言することが必須であったという見方だ。ようするに、神は「あなたがわたしをおそれていることがわかった」と“制止”するまで〈真意を隠す〉必要があったという考察である。神は誠実であられるからご采配は決して不条理ではない。
ただ、この試練がアブラハムにとって耐えがたく苦しいものであったことは間違いない。ここは、神の摂理がその全体において成り立つことを知らなければ躓いてしまう場面であるが「神の采配を信じれば必ず最善に成る」という父祖の信仰を見倣うことができれば、躓きを防ぐ教訓に転ずる箇所でもある。この山での描写はアブラハムが復活信仰を獲得した(へブ11:19)瞬間を捉えており、冒頭で述べた通りキリストの贖いに繋がっている。父なる神は[アブラハム契約]に基づいて異邦人まで救済することを“約束”し、悲痛な思いで御子イエスを捧げて(いわば“神身供犠”)、そのことを遂げた。誠実を成り立たせるための「イサクを捧げよ」という過程は、まさしく“嘘のような深い愛”から成り立っていたのである。そして、愛されるためには誤解されることさえ厭わない神の全知全能を、我々はその涙一滴ほども分かっていない。
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