御霊の律法[ロマ8:]

御霊の律法[ロマ8:]

信仰に至った者の内に住まう[聖霊なる神]が導き手として働かれることで成り立つ“完成された律法”のこと。旧約時代には613の律法があり新約時代には「無意味」となることなく、0の律法に集約されることで「霊」によって判断できるようになった。

[聖霊なる神]は旧約時代から“霊”として人々に下っておられたが、その働きが明確に記述されるのは新約に入ってからであった。『創世記』以来、イスラエルの民は“選民としての自覚”によってそのまま信仰に留まることができたからだ。そして、キリストによる贖いによって救いが完成し、神による人類の救済計画がいよいよ異邦人にまで及んだとき“信仰の証印”として聖霊さまの働きが明記されるようになった。

メシアニックジュー(ユダヤ人キリスト者)ではないイスラエルは、主イエスをキリストと認めることができないので、聖霊の働きを感じ取ることができていない。「旧約の律法を守り続けること」が救いの道だと未だに考えているからである。それは彼らが生まれて間も無く受ける[割礼](陽の皮の切除)にそのまま表れている。「人間は“わざ”(よい行い)によって救われる」という考え方である。しかし、使徒パウロが論証した–つまり,神が思っておられる–ところは、イスラエルの祖であったアブラハムは“割礼を受ける前”に「信仰によって義と認められた」こと。つまり、神の御心は「信仰の表し方として愛(に根ざす律法)を行いなさい」という点にこそある。

“生ける”と呼ばれる[御霊の律法]は「〜しないようにしなさい」と信徒を諌め「〜すべきではなかったね」と信徒を叱り「〜できるようになろう」と信徒を励ます。ロマ書で使徒パウロは,「〜してはいけない」という命令は人間の罪を掻き立ててしまうが,罪を示す律法が悪であるはずがない.と“罪を律するジレンマ”を論じている。ただ、キリストと共に“十字架において罪を磔にした”という恵みの下にある信徒にとり「罪は死んでいて,御霊が生きている」状態にある。未信徒時代の“習慣”という“依存症”は残っているが、それを激励を以って治療なさるのが[御霊の律法]であり「以前できなかったことができるようになる」(ex.怒りっぽくなくなった,迷うことが少なくなった,…)という祝された体験がそのまま聖書信仰の実証となってゆく。すべての人々が十字架を見上げることで、神の恵みの下に集うことを。

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