人々が抱く疑問として「アダムとエバは最初に生命の樹から食べればよかったのか」というものがある。それはつまり「善悪の樹から実を食べた後だから、生命の樹から取るのを禁じられたのでは」という“関心”である。創造論に興味を持っている人に応えられないのは勿体ないので、私の考えをお伝えする。
まず、善悪の樹には“毒”が入ったわけではない。正確に言えば「実に何かの毒があったかどうかは重要ではない」。それというのも、あの場面は「食べてはならない」という神の命令にアダムとエバが“自らの意思で背いた”ことこそが重要だからである。「人間を罪人にするために神が罠を仕掛けた」などと見当違いなことを言う人がいるが、実際には真逆であり、神は人間を“操り人形にしない”ために[自由意志]を与えた。つまり、善悪の樹が置かれたとき、神は罪という毒を実の中に忍ばせていたのではない。そうではなくて、むしろ人間を傷つけることなしに、自由な意思決定権を付与した(この権利を誤用することが[罪])。では、神が善悪の樹から取った“あとに”生命の樹から取るのを禁じたのはなぜか。「彼らが永遠に生きる者となってはいけない」(3:22)と神はふたりをエデンから追放した以上は、理由がある。その点を考えてみよう。
まず、この樹についてほかに言及されている『箴言』と『ヨハネの黙示録』から、生命の樹には癒しの力があると考えられ、神の国に至ったあと、民である信徒がいただくことができるとわかる。したがって、生命の樹はエデンの園でその存在が示され「人間が手を伸ばせなかった」という“惜しさ”が強調されている。つまり、生命の樹が我々に示されたわけは「神の国を切望するため」であるということだ。
だからといって、神はエサをまいているわけではなく、愛に基づくお考えがある。先に述べたように、人間が操り人形になることを、神は欲しなかった。けれども、神が全知全能である以上、その導きに従うことは予定的なのではないか。ここに、エデンの園の出来事からの学びが活きるのである。つまり、神は人間を導くとき「二つ(あるいは複数)の選択肢を提示しながら、人間に決定させつつ、導く」ということだ。選択肢を示したとき、その人間が選ぶであろう道を神はご存じだから、結果的に「人間が自己決定をしつつも神が導く」という摂理がここに成り立つ。
神は悪を創らなかった。神は「悪を定義した」のである。それを実体としての悪にしてしまうのは、善悪の樹に手を伸ばしたくなる人間の罪(自由意志の誤用)による。したがって、我々は「今このとき、人間の尊厳である意思を行使して、“生命の樹”の実にいたるほうを選択できるか」ということをこそ考えるべきなのだ。アダムとエバがエデンの園を追放されたのは、自らの意思で神のもとに帰るため。生命の樹に対する疑問は、各人が聖書を読んで(信仰生活によって)こそ、真に解ることなのである。生命の樹と聖書は、その本質において同じものだ。
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