聖書が提示する福音の内容は『コリント人への手紙 第一』の15章冒頭に出てくる。その内容とは,1)イエスは私たちの罪のために死なれ,2)墓に葬られ,3)三日目に甦られた.という三つの要素である。どうして、この三要素が重要なのかを三つの視点から説明する。
①福音は聖書全巻の信仰としての三要素である.1)イエスは“歴史書”に連なる系図から,2)“預言書”の通りに歩まれ,3)“詩書”に歌われるように勝利されて“黙示録”に書かれた復活の初穂となられた.これらを“書簡”が論証する.このような意味において、福音の三要素は「聖書全巻を信じること」と同じなのである。原理的には、福音の三要素を信じれば誰もが救われるが「心から信じる」ためには聖書の通読が必然的に不可欠となる。
②福音には贖罪の理論が含まれている.1)処女マリアから“聖霊”によって産まれたイエスには罪の性質がなかった,2)人間でもあった“子なる神”は死なれることができた,3)キリストの復活を信じることは“父なる神”の権能により頼む意味で罪(神への反抗)を十字架につけることである.十字架の贖いを信じることは、自分の罪をイエスに“転嫁”して、死と共に滅ぼしていただくことなのである。その証拠に、罪の本質である「神に背くこと」は信仰によって消えているはずだ。転嫁の論理については『レビ記』16章の[アザゼル]の儀式を読むとよく分かる。
③福音は神のご性質を示すものである.1)イエスは父なるからの任務を遂行され,2)キリストは人でもあったゆえに死によって信仰者の罪を滅ぼすことができ,3)子なる神であったから復活なさることができた.新約の執筆当時にも[グノーシス]というキリストの人性と神性を否定する思想があった。しかし、それに類する立場をとることは神のご計画を台無しにしてしまう。
さて、以上の三点から説明してきたが「実際に自分が救われたか、どうやって確認すればよいのか」と思う人もいるだろう。お答えすると、キリストのことを「主イエス」と呼ぶことができれば、救われている。聖書によれば、救われた者は[聖霊のバプテスマ](聖霊なる神が内側に住まわれること)を受けるが、その御霊によらなければ「イエスは主である」と告白できないとされるからだ。キリストを主と呼べないならば、福音を「心から信じる」には至っていないことになるが、慌てることはない。なぜなら、あなたが慌てるのは、すでに神の御手があなたに届いている証だからである。自分がどのように信仰に向かっていったかを覚えておくことは、未信徒の人々への助言にも繋がるから、体験として味わうことを私はおすすめする。
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