行い[ヤコ1:]

行い[ヤコ1:]

諸宗教にみられる「人間は善行によって救われる」というのは誤りである。神の前で全き善人であることはあり得ないからだ。たとえばもし「自分は神の面前にも堂々と立てる」と思っている“善人”がいたとしても、その人物には“驕り”の罪があるように。我々が善を行うという[わざ]の原理で救われるのであれば「キリストの贖いは無意味だった」ということになってしまう。「キリストの十字架の意味を知らなかった」ということはあり得ても、十字架には『創世記』以来の神による計画のすべてが懸かっている。だからこそ信徒は何としても福音を伝えなければならない。よって“「人間は悪行によって裁かれる」のであり、救いそのものは善行によらない”というのが義しい理解なのだ。

では、救いが十字架を信じることによるのはなぜか。信仰を説いた使徒パウロ自身はキリストを目撃している。したがって、信仰は「目に見えない神を信じる」というわけではないことになる。そもそも主イエスご自身が説いたのは律法の本質である「愛を行いなさい」ということであった。つまり、信仰というのは「目に見えない愛を重んじる」ところにこそ、その真髄があるということである。しかし、人間は神に自由意思を与えられ、その祝福のゆえに自分自身では完全には善を行うことができない。だから「自分には善を行えません。“助けて”ください」と神に求めた(信仰に至った)人だけが[義]と認められ“救われる”のである。聖書が説く救いの本質とは自己否定にある。「人間的なエゴを否定して現れる“神の愛”という基準に生きようと意思して選び取る」のが救いの本質であるというわけだ。

『ヤコブの手紙』においては“行い”の重要性が説かれるが、それは[信仰義認]と矛盾するものではない。「人は信仰によって義と認められ,行いによってそれを表す」というのが聖書の御教えである。では、“信仰を表す行い”とはなんだろうか。そのポイントは「すべての行いを神の栄光をあらわすために為す」という基準にあるだろう。では、「未信徒のまま死した人は裁きに遭う」と“自分が神であるかのように”隣人を裁くことは御心に沿っているだろうか。我々は越権行為に走るのではなく、善行を大切にする聡い人々に「すべてを完璧に治めてくださる」という超越的な善である神の愛を知ってもらうことにこそ尽くしてゆくべきだ。

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