2.聖句の悦び

これからという時。(参考→Ⅱ列23:24,29,使17:18)

今回は、いわば現状報告です。これまでの歩みも振り返ってみたいと思います。

2020年。春に大学を卒業した私は、コロナ禍で卒業式が行われなかったことに引っ張られるかのように、哲学探究を続けました。その情熱は非常にあついもので、今でも知的好奇心にあてられそうになることがあるほどです(ただし、哲学的営為の素晴らしさに隠れた、人間的な思惑の危険性を忘れてはいけません)。5月から執筆活動をはじめ、思索を重ねながら記事を書いていました。しかし、体調の波と、思想的な揺らぎゆえに、ガタつきながらの日々でした。そして、この年の末に私がキリスト者となったことは「思想家としての到達点は聖書の教えであり、神の導きが真理である」という証でもありました。

翌2021年は、いわば“自由主義神学の年”でした。真理探究が哲学であるならば、その歩みは既にゴールに達していました。しかし、私は“キリスト教哲学”に向かうことになったのです。そのテーマは、「未信徒の救済可能性」でした。これは、既に故人となった身内の救いについて、その確証を得たいという思いを動機とするものでした。

聖書を読めば読むほど、その完璧さに感嘆するとともに「字義通りに読むことこそ神が用意なさった在り方である」という事実が分かっていきます。聖書に触れるきっかけとなったカルトの“文脈無視の比喩的解釈”がいかに危険か身をもって知っていた私は、字義通りに読みつつも“その解釈に幅を持たせようと”していました。しかし、この読み方は、いたって不自然でした。ヘブル語・ギリシャ語原典を日本語に訳した聖書をさらに解釈するとは、どういうことでしょうか。それは、聖書研究ではなく、“日本語研究”でしょう。こういったことを続ければそれだけ、むしろ、その不自然さに心地悪さを覚えていきました。異端的な立場に向かいそうになることも、しばしばでした。

しかし、ある時、気づきます。私が回心の時に感じた“希望”です。私には、この家系から自分というキリスト者が出ることに大きな意味を感じて、回心を決意しました。その背景に何があったのか。それは、聖書全体のメッセージは「神が完璧なお方である」という証明であるということへの、無意識の信頼だったのです。そこに思い至った時、「聖書は、全き神の書だから、不自然に読む必要はない。むしろ、そのまま読んでこそ、全能の神への讃美だ」と信じるようになったのです。それは、聖書に書かれていることを出ず、聖書が黙していることは信徒も黙し、“未信徒の救いは全きお方である神にお任せする”という立場を取ることでした。

秋に近づくと、重点的に神学的な学びをしていた聖書が、新約に差し掛かりました。三位一体の教理と、主イエスという告白が、どうしても理解出来なかった私は、パウロ書簡に触れ、そういったことは「聖書に書かれていること」であり、ゆえに「父なる神のご意志だ」と捉えることが出来たのでした。“聖霊の内住”を真に感ずるようになったのも、ここからでした。

こうして私は、福音派の正統的なキリスト者へと近づいていきました。その歩みと並行し、執筆活動を断続的に続けていた私。主イエスに似た者となるべく歩む聖化の信仰生活の中で気づいたことを、聖句を交えて日記のように書いていると、それが“随筆”のジャンルに近いものであることに気づき、同時に、「エッセイを書くことが向いているかもしれない」と考えるようになったのです。こうして、哲学探究の記事をあげていた“ふぃろそふぃ屋”をバイブル・ログの場として改め、“威張るブログ”と名付けて再出発しました。

ただ、どれだけ工夫しても、体調と生活リズムに波があり、継続するのが難しい日々が続いていました。そこで、「ここでこそ思想の出番だ」と工夫をこころみたのです。しかし、日本人伝道の可能性が開けることへのサタンの阻みを受け“試み”に遭うことになり、一時的に甚大な危機に瀕しました。それでも神は、その躓きの闇さえ、一層の輝きへの布石としてくださり、今、最高の執筆生活スタイルが確立されるに至ったのでした。

「地上生涯に満足したかもしれない」。その状態は、いい意味で一時的なものでした。今、私は自分史上最も、「命が惜しい」のです。一日でも長くエッセイを書いて、伝道に励みたいのです。世と歩調を合わせるかのように“地に足をつけて”ではなく、この異教的な日本に一石を投ずるべく、霊に燃え信仰に燃え“羽ばたきたい”のです。

2022年は、2月に向かおうとしていますが、“聖句のエッセイ”を芸術作品のように、丁寧に作っていく手法も見出しました。今のところ“KDP”による出版を考えていますが、きっと素晴らしいものをお届けできると思います。

今の自分は、“信徒にとっての適用集”とも言える旧約の歴史書に照らし合わせると、誰の状態だろう。そう考え頭に浮かんだのは、偶像礼拝で堕落しきったイスラエルに霊的な一大リバイバルを起こしたヨシヤ王でした。彼は、わずかな高慢ゆえに、夢半ばで散ってしまいました。偉大な彼に倣わなくてはなりません。今一度、主イエスの遜りに感謝し、聖霊の御声に聞き従い、父なる神に縋りながら讃美して翔びたいと思います。

皆さんにあっても、どうか素晴らしい歩みが出来ますように。

最後までありがとうございました。

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