1.序論
a)聖書のみ
→研鑽に際して、教派を超えて神学を寄せ集めようとするとバランスを崩す。なぜなら、基本的にプロテスタントの諸教派は、各々土台となる理念に基づいて神学的な教理を形成しているからである。ゆえに、一つの視点から多角的に見るのが不可能であるならば…と逆に多面的な視点から教理を捉えようとするアプローチをすれば、行き着く先は一つの誤謬なのである。誰かの神学研究の成果に与らない立場をとるなら原語で読むしかないが、短くない教会史のなかで形成された神学に意味がないはずもない。その辺りのバランスが難しい。
b)原語の時制
→聖書原典は旧約がヘブル語、新約がギリシャ語で書かれている。特に、救いの核心である新約がギリシャ語で書かれている事実は日本人にとり、非常に重要である。なぜなら、「日本語では表現できない複雑な時制がある」からだ。
c)パウロ書簡
→まさしく、福音の核心は御父から使徒パウロに託されたが、彼の書簡は“あいさつ”から始まる。この序文は、浅く読んでしまいがちだが“その書簡がどのような目的で書かれたかを示す”意味でも非常に重要である。つまり、その書簡における神学テーマの提示だからである。
2.本論
a)真理は一つ
→救いに直結するゆえに聖書の訳出には重大な責任と大変な努力を要し、今も丹念に続けられているわけであるが、言語的にどうしても表現できぬこともあろう。しかし、原典と時制が異なったとしても、真理が変わるはずはない。であるから、聖書を字義通りに読むことに多少の言語的な壁はあっても教理的な壁は全くない。当該聖句は、そのことをあらわす意味でも非常に重要な箇所である。
b)福音は一つ
→プロテスタントの正統教義では、救いは「福音の三要素」を信じた時に与えられ、失うことはない。この事実は、ギリシャ語原典において“一度限りの完了形”の時制で書かれていることからも言え、綜合的にみたとき「ただ一つの福音が、救いのただ一つの道である」ことを導出する。
c)偽物から知る本物
→今回の箇所では、一連の文脈において、使徒パウロが偽の福音を伝える者に「そのような者はのろわれよ」と糾弾しつつ「福音が一つである」ことを強調している。つまりこれは、救いに関わる決定的な事実を曲げることへの強烈な非難と、本当の福音は一つであることの核心的な解き明かしなのである。
3.結論
a)字義的解釈
→旧約聖書の「バベルの塔」の出来事を忘れてはいけない。もし言語的な壁が聖書の教えを伝える妨げになるなら、教えが自己矛盾を起こしていることになる。しかし、神が全能であられる以上、他言語圏の異邦人への救いのご計画が挫かれることはあり得ず、なればこそ聖書の教理が“意図せず”誤訳されることはないのである。
b)偽の福音
→しかしながら、使徒パウロがたたかった相手よりもっと悪しき者が“意図的に”聖書を訳し変えている。人々を救いに至らせる“よい知らせ”たる福音を、逆に滅びへと至らせるものに替えるサタンの使いが、今の世にはひしめいている。我々は「聖書全体がいかにバランスのとれたものか」を意識し、その教えに確固たる整合性があることを常に確認しながら、反キリストに備えなくてはならない。イスラエルが救いの起点になったらば、異邦人信徒は未信徒への正しい伝道における動力を担っている。