3.威張るブログ

はたらき。(参考→Iコリ9:7)

1.序論

a)迷い

→昨晩は大きな地震があった。緊張してなかなか眠れなかったが、目覚めはよかった。「新しい日を迎えられるのは当たり前ではない」と、いつも噛み締めているが、今朝はいっそう強い感謝の祈りを神に捧げた。だから、いつにも増して力強く励もうと意気込んだ私だったが、ポストに入っていたパンフレットをきっかけに、迷うこととなった。

b)教室

→その広告は、予備校からの生徒募集のものだった。どうして我が家に届いたか分からなかったが、そのゆえに「何か意味があるのではないか」と思った。私は以前から、哲学を専攻して学んだ“テキスト読解の技術”を仕事として活かす道を考えていたから、その気持ちが再燃したというわけである。

c)はたらき

→それだけではなく、福音伝道をホームページで展開していく時に「“はたらき”と“身を立てること”を分けるのか一致させるのか」というのは、かねてより重要なテーマだった。はたらきと仕事を分けるのは高潔だし、はたらきから糧を得られるのも美しい。だからして、執筆体制に加え神学的な研鑽の仕方も固まった時に突き当たったものと捉えれば、納得の迷いである。

2.本論

d)世との関わり

→使徒パウロが書簡で語る伝道者のあり方によれば「反対者多き福音伝道は兵役のようなものであり、だからして金銭を受け取るのは当然の権利である」ということだ(ただし、パウロの場合は神からの使命であったため“生計は天幕張りで立てる”という“使徒職の誇り”を彼は益としていた)。だから、聖書に基づけば伝道のはたらきで報酬を受けてもいいのだが、糧を得るという、なるべく距離を置くべき“勘定の思案”が少なからず伝道に干渉するゆえ、バランス感覚が問われる。

e)真理への道を教えること

→哲学とは真理に至る営みであるから、テキスト読解を教えることは“方法”の指導である。しかし、既に「聖書の御言葉が真理である」ことに至っている者として、その道を行くことは遠回りに思える。“向学心”はよいとしても“上昇志向”の盛る若者に教えても、私自身の青さも相まって、哲学という素晴らしい学問が“単なる世渡り術”になってしまう懸念もある。

f)研鑽の違い

→どうやら今は、聖書の思想を綴るはたらきを続けたほうがよさそうだ。そう思った一番の決め手は、学習指導の研鑽を試したときに“拒否反応”が出たことだ。それは、聖書研究とは真逆で、御国に新生した自分が俗世に戻ってしまうような感覚であり非常に不自然で、心地わるいものだった。忘れぬように、ここに書き残しておきたい。あれは不慣れから来る類のものではなく“俗”にあたるものだった。

3.結論

g)最善を尽くす

→恵まれた環境にあぐらをかくようではいけない。ただ、焦って自分の“召し”から外れてもいけない。今日の迷いが“サタンの阻み”だったのかを判断するのは難しいが、おそらくそうではないだろう。ただ、どうあったとしても「立ち行かなくなったときに糧を得る選択肢はあるから“今”できるベストを尽くすべきだ」という自覚に至ったことは、間違いなく神の導きゆえだと思う。国際情勢、災害、ウィルス。時代がどうあろうと「この世にある“不変にして普遍のもの”(すなわち聖書のメッセージ)を伝道して生きる道をゆく」という私の決意は揺るがない。自らの作品に希少な価値を見出すことは高慢だろうか。「自分を安売りしない」とはどういうことか、よく考えたいと思う。

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