1.序論
a)神はいるのか
→まず「神の存在を証明してくれ」と何度も要求してくる話者を相手にし続けるのは少々不毛かもしれない。というのは、彼らの多くは「神の存在は科学によって否定されているでしょ」と、読みもしない論文を鵜呑みにして、信徒の話には「だったら神を見せて(知覚させて)くれ」と応じるだろうから。そのような人は「神が超越者である」という説明の導入さえも通じないほどに“愛(すなわち誰かを理解しようとする心)”のありようをこじらせてしまっている。ときに足の塵を払わないと、私たちの神が疎かにされた怒りで、愛を損ねかねない(もちろん、この論考の読者は私のような小さき者の主張さえを受け取ろうとしてくれているのだから、他者を理解しようとする心のある人である)。
b)学ぼうとする者
→しかし「聖書には興味があるけれど、神の存在が信じられない」と“誤解”しているだけで“学びとる”姿勢をもつ人には、御言葉が届く用意があるから、世界の基礎教養であるだけでなく「聖書は“神の存在証明”の論文である」という事実から勧めてみるとよいだろう。
c)議論
→聖書と科学は、正確には衝突するものではない。物理学は、神が創造した被造世界の法則が完璧であることを立証する。事実、悪意ある情報操作のせいで取り上げられることが少ないが、有神論者の科学者は大勢いる。じつのところ論争は神学と科学ではなく“有神論”と“無神論”の間で起きているのだ。今回は、そのたとえとして「りんごの箱」について考えてみよう。
2.本論
d)開けるに際して
→地方の親戚からりんごが送られてきた。ダンボールの大きな箱には、イラストと太字で“りんご”が表されている。「よし、開けてりんごを食べよう」。しかし、ここで議論が起こった。「いや、待て。中身がりんごとは限らない。開けるのは、よすべきだ」。
e)論点
→これは、聖書と無神論的科学のやり取りである。聖書は、ひとたび開いて読めば、誤読がない限りその整合性が解るものである。しかし、無神論科学者は「神の不在は数学的に証明されている」と言う。箱を開けたら中身が分かる、つまりそのダンボールに「書かれていることが正しいか」は「開いたら分かる」にも関わらず、開こうとするその手を阻むのである。
f)否定の優位性
→あらゆる議論は「肯定より否定のほうが遥かに容易である」。なぜなら、物事は、“肯定”がその対象である“一”なるものを支持するのに対し、“否定”はそれ以外のあらゆる要素である“多”を使うことができるからだ。だから、その性質を知らずして何でも否定から入る論者は、“多”の概念を用いて悦に浸りながらも、自身はその“多”なるもののうち、僅かな“一つ”さえ知ることができないのである。本論の最初で、相手にすべき人を限定したのには、このような理由があったわけである。
g)手を伸ばすだけ
→したがって、机上の議論をいくら重ねても「箱を開けることには及ばない」。実際に箱を開けて“りんご(神の真理)が確認できた”ならば“箱(聖書)に「書かれていたことは正しい」ことになる”のである。
h)確認
→さぁ、箱(聖書)を開いたらば「本当に書かれていたことが正しいか」を“精査”する作業に移る。もし、この“66個のりんご”(全66巻)の中に、一つでも“梨”(誤り)が入っていたらダンボール(聖書)に「書かれていたことは間違っていた」ことになる。それは“りんごの箱”ではなく“りんごと梨の箱”になろうから。
i)食べて確かめる
→そうして、全ての果実の色、手触り、味覚をあじわうと「書かれていた通りだった」ことが解る。つまり「66巻全てに整合性があるうえに体験的にも間違いがない」。聖書という“神の存在証明論文”は、このようにしてその真理性が立証されるのである。
3.結論
j)他の論文
→それができたら、もはや他の論文を読む必要はない。神によるご自身の証明が、完璧な整合性を持っていることに加え、さらには体験的にも理解できたのだから。ここに論理学の基礎を用いよう。「二項のうち、どちらかが真のとき、片方の真が証明されたならば、もう一方は必ず偽である」。
k)結び
聖書の全66巻が、どれほど長い歴史の中で書かれてきたか。そのような聖典が整合性を持っているのは考え難いことであり、真理を体感した者に繋がれてきた事実を物語っていよう。信仰がはじめにあるのではない。“まず吟味があり”、読んでから衝撃を受けるのだ。とりあえず開けたほうがいい。早めに味わうに越したことはないのだから。