2.聖句の悦び

アブラハムの試練。(参考→創22:2,12)

聖書の冒頭に置かれた『創世記』。アダムの堕落に始まり、ノアの洪水物語やバベルの塔…。そういった出来事ののち、アブラハムという人に焦点が当たります。まさにこの人物から“契約に基づく救済”が大きく動き始めることとなります。

さて、アブラハムは自分の身を守るために妻のサラを妹だと偽ってしまうような“人間的なひと”でした。一度ならず失敗をしています。そのような彼でしたが“父祖”に相応しい人物であったことが信仰の成長とともに明らかになります。それが今回の箇所です。

同じく高齢だった妻サラは「あなたは男児を授かる」という神のお告げに対して(おそらく悲しみも含め)「あり得ない」と笑いました。しかし、予告通りに子を得て、彼はイサク(ヘブル語で“彼は笑う”の意)と名付けられました。この命名には、両親の失笑が喜びに変わったことを表しているでしょう。

しかし、イサクが少年になった時、アブラハムは神から「あなたの息子を捧げよ」との命令を受けたのでした。動揺したに違いありませんが、その描写自体はなく、彼は毅然とした態度で息子を捧げようとします。

ですが、いよいよというところで御使いが現れ、「あなたが神をおそれる者だとわかった」と、それを制止しました。

このやり取りの中で、アブラハムはどのような心境で、神の意図は何だったのでしょうか。

ここからは個人的な考察ですが、アブラハムはこの時点で既に復活信仰を持っていたのではないかと思います。それは、「イサクを捧げても、神が最善に導いてくださる」という信頼の姿勢であり、突き詰めて言えば〈“神の全能性”への信仰〉です。

とはいえ、「神様、ちょっとやりすぎでは…」と思われる方も多いでしょう。おそらく神が考えておられたのは、「極端とも言える試練を課すことによって、アブラハムを信徒の模範にしようとした」ことなのではないかと。更には、アブラハムの信頼(信仰)通り「イサクは守られた」という点を見逃してはなりません。それに対し、この究極的な試練を課して契約の救済を始めた“父なる神”は、その成就のため長き時間ののち、ご自身の独り子イエスを「実際に」捧げたのです。

アブラハムの試練は、“父なる神”が救済の始めとして、神へ全幅の信頼を置く“信仰の父”たる姿を後の人々に模範的に示す意図と、その救済を彼にはさせなかった「自分の独り子を捧げる」という出来事で完成させるとの壮大な計画に基づいていたのです。

幸いなことに、我々は自分の子を捧げる試練には遭わないでしょうし、「私たちを試みに遭わせないでください」と祈るべきです。ただ、そのように私たちを守ってくださる神に「自分を捧げるつもりで」従うことが大事だと思います。このように書くと、未信徒の皆さんは強いメッセージに感じるかもしれませんが、義しくあろうとすれば恵んでくださるのが、天の父上です。祈ったら、微笑み返してくださるお方ですよ。

最後までありがとうございました。

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