4.終始と三項

イドラと預言。(参考→IIテモ4:2-4,箴15:14)

α:聖書では“この世”が否定されています。勘違いしてはいけないのが「空間としての世界(被造世界)は否定されていない」ということです。それどころか、冒頭の『創世記』から「はなはだ善い」として創られたのがこの世界です。問題は、自由な意思決定を付与した結果、人間に「罪」が生じたことです。これは避けられぬことでした。「だからさ、全知全能な神なんていないんだよ」と言う人は、聖書の記述を肯定したことになります。神はそれさえ見越しておられるゆえに、そこから66巻を始めたのです。このメッセージの読者さんは「聖書は否定できない」ことを現に目の当たりにしているのです。『創世記』は「“未完”の科学」とぶつかりつつ思想的に否定できない救済史の始点なのです。

§:“この世”について聖書は否定していると書きましたが、それは空間のことではなく「神に離反する考え方」のことです。逆に「神に委ねる考え方」を“地上の御国”(天国の先取り)と表現したりします。罪人である人間は“善悪”で物事を判断しようとします。しかし、それはどこまで追求したとて“自分基準”です。結果的に“神の律法”を「部分的に」踏襲することはできても、自力では不可能なのです。だから「義」(神の基準に生きること)が必要なのであり、その道が書かれたものこそ「聖書」です。しかし、人々は“キリスト教”への抵抗感から本来は人間的な分類など出来ぬ「唯一の聖典」に手を伸ばそうとしません。

§:「興味がない」と聖書を拒絶しながら、議論の段階にも至っていない非常に薄弱な“感想”で「無知の“恥”(むちのチ)」を晒している人がいます。やめたほうがいいです。これは私自身が猛省して得た教訓です。私は異教についてその全てを知っているわけではないので、よほどの必要がない限り、無用な攻撃はもうしないと決めました。“必要”とか“用”という言葉を使ったわけは「異教」の定義は非常に難しい問題だからです。私は「聖書の教え以外は異教(文字通り“異なる教え”)である」としていますが「学ぶことがない」と高ぶる姿勢が間違っていることは聖書も教えています。そこが難しいのです。つまり「学ぶ姿勢は大事である」けれども、世には「“反キリスト”(サタンの勢力)が混ざっている」という“闇”です。

§:哲学用語に「イドラ」という言葉があります。これは端的に言うと“先入観”です。この概念は現代にこそ必要です。例えば、メディアの偏重報道や記事の作為的な切り抜き。興味がないことには触れないほうがよいのですが、どうやっても何かしら接触してしまうのは避けられません。ただ、それが「どうでもいいこと」なら問題ないでしょう。しかし「本当は大事なこと」が“イドラ”によって曲解されていたらどうでしょうか。関心事であれば、まだ「確かめてみよう」となるかもしれません。しかし、イドラによって「関心の外」に真理があったらどうしますか。聖書が真理である理由の一つは「人々が他の教えに惑わされる」と“預言”されていることです。もし「いやw、書いとけばそれは当たるでしょ」とあなたが笑うならば、先の文言が聖書に書かれていることを知っていたか、私は問います。読み手でない者には関係ないのに「人々がこの書を読まなくなる」とわざわざ書く理由があるでしょうか。このことが伝えなくてはいけない真理の証でなくなんでしょう。

Ω:聖書の書き手は神なのです。そこに銭勘定なんてありません。まして、洗脳の意図などあるはずがない。神は、もし人間を操り人形にしたければ初めからできるお方です。「自由意志を与えたから、人々は遠ざかっていくだろう。そのうえで帰ってくる者をわたしは受け入れる」というのが[父なる神]のお考えではないでしょうか。つまり「意思を行使すること」こそが、人として生きることであり、聖書を選びとるのが「義しい生き方」だということです。これは、私の“主体的真理”と言われるかもしれません。しかし「自由意志ゆえの離反と回帰」までを“完結”して描き、さらに敵対勢力への備えまでされている。そのような(、私の)“絶対的真理”を個人的に見出した者として、聖書が皆さんにとっての「主体的真理の選択肢」になるよう努めます。“獣”がつくりだす闇は深く、そのゆえに神の光はそこへ差し込むと信じているからです。

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