1.序論
a)反キリスト
→先日、昼食をとろうとテレビを点けると、ある男が画面に映った。懲りもせず性的な愚行で起訴されたらしい奴は、もはや私にとっては怒りの対象でさえなく、呆れ返ってしまった。その男とは、カルト教団“キリスト教福音宣教会”の親玉である。
b)某番組
→その番組では、右上のテロップに「宗教団体“摂理”の教祖~」と表示されながら話が進んでいたが「近頃のメディアは腐敗している」と聞いてもピンとこなかった私にも、そのことがうかがえる放送だった。
2.本論
c)信じるほうが悪い
→芸人さんが色々とコメントしていたが、中々、興味深い指摘だとは思った。しかし、(仕方ないことであるけれども)ほとんど中身がない。彼らに非はないが、報道が無意味なのはまだしも“害”になるのはよくない。というのは、その番組では「信者が自分の意思で信じている」のを前提にして「それで性的暴行を受けるのは自業自得だ」という感じで話が進んでおり、肝心の“洗脳というキーワード”が全く出てこなかったのである。
d)カルト
→通称“摂理”はカルト教団であり、彼らは「マインドコントロール」をしてくる。しかも、名前を隠して。名乗って勧誘してくる“エホバの証人”のほうがまだ良心的である。幼い子を連れてこちらの警戒心を解き、親しげに道を尋ねてきて、連絡先を交換したが最後。「無視すればいい」という対応に後ろめたさを覚えるようなお礼をしてくる。数ヶ月かけて距離を縮めてから、更にオブラートに包んで話を持ちかけてくる慎重で巧妙な狡猾さは「自分は騙されない」という“油断”を逆に利用するのだ。
e)俺は平気
→あの番組をみて「騙されないようにすればいいんだ」と思った視聴者は、既に危うさを露呈している。なぜなら、かの男はそもそも「宗教団体“摂理”の教祖」ではなく「カルト教団“キリスト教福音宣教会”の牧師」を名乗っているからである。よって「こんな“摂理”なんていう団体に騙されるかよ」とメディアを鵜呑みにした人は、その時点で「危うい」のだ。
f)情報
→今の時代は、情報過多だが、いい側面もある。「調べる」ことができるからだ。しかし、カルトはそんな変化も想定している。彼らの教理は基本的に表にでないし、それらを聞く頃にはもうコントロールが進んでいる。たとえば『エリヤとからすのパン』という奴らの作り話があるが、あちらが口にしないそのタイトルがわからない限り、検索するのは難しいだろう。
3.結論
g)内実
→聖書には<旧約の時代、“バアル礼拝”を倒すために、預言者エリヤが遣わされたが、空腹になったときに、神がカラスに食べ物を運ばせた>という史実がある。…「この記述でさ、鳥が食べ物を運ぶって不自然じゃない?カラスってどんなイメージがある?そう、いいイメージじゃないよね。ここのカラスってのはじつは“異教徒”の比喩なんだよ」…。ジョークとしては洒落ているが、本気で言っているなら笑えない。神が救済のために書いた聖書が、そんな遠回りで無意味な記述をわざわざとる理由がない。恥知らずにも“聖書の権威”を利用してバアル礼拝さながらの性的なおぞましい儀式をしているあの“偽教師”は、サタンに意思を売って人間であることを放棄し“反キリスト”となった。その悲惨な有り様が、ゲヘナの滅びを先取って表している。
h)信じる
→人は誰しも、何かを信じることなしには存在し得ない。科学信仰もそうであるし、無神論は「神の不在」を信じる。そういった中で、自ら意思を放棄した者(“意思の放棄”を意思決定した者)はもはや人間ではない。だからして、信じる対象は各々が自由に(慎重さを忘れず)決めるべきだろう。ただ、せっかく信じるなら「本当に価値あるものを」と思う。私が聖書を信じるのは「自由意思で愛を示す」のが“本来の教え”だからに他ならず、カルトや異端のせいで生じた誤解をときたい。もちろん「私の言うことも真に受けてはダメ」だ(騙す気はさらさらないが)。とにかく、あらゆること(情報)に「なぜ?」を突きつけてほしい。“哲学”(疑って考えること)だ。とにかく「哲学すべき」だ。そうすれば、真理は自ずとみえよう。