祈りの持つ力は、計り知れません。
一日のうちに、どれだけ聖書の学びをしたとしても、一回の祈りには及びません。
祈り、讃美と、聖書の学びは、どれも欠かせませんが、
信仰生活、ひいては地上生涯をどう進むかは、祈りの中でこそみえてきます。
信徒として、今となっては、当たり前の“ように”なっていますが、
神の導きを体感することは、とても不思議で感動的なものです。
どうしても、焦って祈りの質が下がってしまうこともあります。
しかし、「神との対話は当たり前ではない」という初心を今一度思い出したいです。
ときに、
「祈りなんて自己暗示でしょ」という人がいます。
仮に自己暗示によって何かを為す力が湧いてくるのだとしたら、その仕組みは神によって人間に備えられたものでしょう。
実際に試しもしない、あるいは、ろくに続けもしない姿勢に基づく信仰否定は容易に見抜けます。
神は、自身を思いのかぎり求める人にこそ応えるお方であり、
「どうにか助けてほしい」と“切望して”神に縋ったときにはじめて光が見えることは、
“自分の外”(⇔自己)からくる、“他力”(⇔暗示)の導き。
言うなれば、
「祈りは“それが自己暗示ではない”と気づくという体験である」
のです。
「偶然の中に意味を見出しているだけ」という人もいます。
神の導きなのではなくて、自分に起こることを解釈しているに過ぎないと。
いや、まさにそこなのです。
〈自分に起きる、そのままでは偶然に過ぎなかったかもしれない事象に、明確な意味を与えるのが祈りです。その主権者は、神です。〉
「“偶然”が“必然”であり、むしろ偶然の方が稀で、人は常に神による導きのもとにある」
と気づくのは、“生きることが本来の輝きを取り戻すこと”です。
私が、何よりもまずお伝えしたいのは、神の存在が信じられないなら、
「あなたがいることをお示しください」
と熱心に祈ってみてほしい、ということです。
はっきり言って、どんなに論理的な神の存在証明も、どんなに緻密な神の不在証明も、
心からの祈りに対する神の応答によって、ことごとく、その意味を失います。
その力を前にした時、人は、自身のちっぽけさと人間的な考えの浅ましさに気づくのです。
ただ、中途半端ではいけません。
「神が実在のすごい存在なら、すぐに返事が来るだろう」
と、大変な勘違いをして、ろくに祈らずやめてしまう。
あるいは、
「神が実在のすごい存在なら、むこうから合図があるだろう」
と、祈りもせずに、勘違いを放置してしまう。
「祈りの本質は、自分の愚かさをころすことで、慎みを捧げることです」。
そのことが分かっていたら、
神を人間のレベルに引き下げるような考え(まさしく、“罪”)は、
「生じ得ません」(なぜなら、“罪”の本質は神からの離反だから)。
なので、
「神は向こうからは何も出来やしない」
と思う人は、その時点で、
「“絶対的な恩恵を受ける機会の喪失”という“罰”を受けている」
ことを知るべきであると、
過去の私自身にもっと早く伝えたいという気持ちです。
ここで、聖書のエピソードを。
旧約の時代、イスラエルを導くために、
神は“さばきつかさ”と呼ばれる人を送りました。
このことは『士師記』(モーセ五書,『ヨシュア記』の次) に書かれています。
この士師たちは、書の後半へ進むにつれて、思わず人選に疑問符をうちたくなるくらい劣化していきます(しかし、これも、“王政”への移行を意図した神のご計画なのです)。
その最後に出てくるのが、耳にした人も多いであろう、
“無双の怪力”を誇ったサムソンです。
彼は、生まれながらの“ナジル人(誓願のもと神に捧げられた人)”でした。
しかし、その出自とは裏腹に、敵である愚かなペリシテ人のほうがだいぶマシに見えるくらいの荒くれ者です。
そんな彼は、ナジル人の誓願ゆえ伸ばした髪に剛力の秘密があることを、デリラという女性の色仕掛けに負けて話してしまい、寝ている間にこれを剃り落とされ、力を失います。
捕らえられ、目を潰され、ダゴンという偶像を拝む人々の前に見せ物とされるサムソン。
彼は、最期に神へ渾身の祈りを捧げ、取り戻した力を以って禍々しい神殿の柱を破壊して、多くのペリシテ人を道連れにして崩落する建物と共に死んでいきました。
生まれもっての賜物がありながら背徳的な性格。
どこか、我々にも通ずる気がします。
そのようなサムソンの自己中心的な祈りにも、神は応じました。
そして、それがペリシテ人を裁く意図だとは、彼には分からなかったでしょう。
ともすれば、
熱心に神を求める者の祈りに、神が応えるであろうことは、“分かる”はずです。
ぜひ、
困っていることに立ち向かう力を求める
でもいいと思うので、篤く祈ってみてください。
思わぬ道が開かれるはずです。
最後までお読みいただきありがとうございました。