3.威張るブログ

不平による証明。(参考→創3:1-6)

1.序論

a)忘恩

→「神は嫌なやつだ」と言う人がいる。なんとも悲しいことだ。でも、我々は罪ゆえに不完全な人間である。そう言いたくなることもあろう。私が納得できないのは、自分(たち)に対して不都合なことが起きた時“だけ”「神は○○だ…」と呼ばわる(※)ことである。「普通」のように思えることに、いつも“条理”としての恵みを受けておきながら、そういった部分を忘れて知らずのうちに「自分が“嫌なやつ”になっていた」としたら悲しい。

b)冷たい

→上述のように、神への批判を僅かに肯定した。どうしてかと言うと、確かに「神」は嫌なやつだからである。そう、先の主張はある意味においては間違っていない。どうしてかと言うと、彼らが呼ばわっている(→※)のは「この世の神」(聖書におけるサタンの表現)だからである。罪の赦されていない人は“サタンの雲”の下にある。だから、光たる[神]の恵みは完全には届かないのである。そのゆえに苦難が基本になっている。雲を除ける用意をしなければ。

2.本論

c)サタン

→無神論は言う、「唯一神を讃える者は都合の悪い時だけ悪魔を出す」と。ならば私は「無神論者は都合の悪い時だけ神を語る」と返そう(これは、悪の存在を間違った仕方で論じた者にも責任がある)。「全能の神は悪をどうして許すのか」と主張する人々に問いたいのは「あなたはどうして神を蔑むという悪を為せるのか」ということ。そして、悪が何たるかを言語化すれば分かるが、我々にあるのは“罪”であり、悪ではない。「すべて人の思惑から出たもの」は“罪”なのである。それは、自由(意志)の産物である。神が、ご自身への侮りを忍耐なさってまで、人間が自由な意思決定によって和解に至ることを待っている事実に、早く気づくべきなのだ。

d)自己証明

→「神がいるなら、こんなことはあり得ない(ーα)」と主張するとき、その論者は<[神]が絶対者であること>を認めている。そのうえで「こんなことは」と決めることは、どこに依っているのか。それを良心と言う人もあろう。しかし、もしそうなら、先の主張は単なるエゴということにならないか。でも、そうではないだろう。私もそう思う。かくて、かの主張は「絶対的な基準がある」ことを前提条件として認めているのである。さて、絶対者とは誰であったか。そう、[神]である。したがって、命題αの主張を分析すると、実はその発言自体が神を認めていることが明らかになるのである。

e)サタンと罪

→このように、人間は神の存在を知らずのうちに知っている。それでも否定しようとするのは、罪ゆえである(だから、上述のテーゼは罪の証明でもある)。「サタン(この世の神)は御使いの長が堕落した存在である」というのが通説で、“この世の神”との表現があらわすことに幅があることも誤解のもとだ。よって、私もサタンという言葉を多用するのは避けるべきだと思う。なぜなら、罪を「促進させる」のがサタンの惑わしであるという事実に対して、“促進剤”にばかり目を向けていても仕方がないからである。そうではなくて“罪そのもの”を治療するべきではないか。そして、驚くべきことだが、その性質上、[神]に解決を求めた時、この病は後遺症(習慣化した罪の名残り)こそあれ、途端に全快する。

3.結論

f)聖書

→本来の光が“罪の雲”によって陰っていることに問題があるというのが本旨である。しかし、罪は自由意志が転倒(誤用)されたものだから、かの雲は「除けることができる」という事実が大切である。しかし、日本人は自分が光に晒されることをおそれる。その根底には本当は、神への畏敬があるのだ。だから、先の「自己証明(d)」が起こるわけである。「日本人ほど聖書道徳を実行している未開人はいない」と言ってよい。あなたは「自分なんて…」と神の選びに与っていないと、勝手に勘違いしていないだろうか。本当にそう思っていたら、私のこのような拙い文章を読もうとはしないはずだ。そして、事実を見るべきである。どんな文学も絶対に及びようがない“聖書という光”が、すぐ側にある事実を。

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