1.命題証明集

世界の終焉。

A:「この世の終焉とは、肉体的な死である」

なぜなら、

B:「“この世”は、身体的な知覚によって認識される」

という意味において、

A*:「肉体に依拠する知覚の消失は、“個における世界”の終焉と同義だから」

である。

しかし、

確かに、

B2:「知覚によって世界は“認識可能”である」一方、

留意すべきは、

B3:「世界を“捉える”ことは、“認識”と“理解”によって為される」

ことである。

そして、命題B3における、

B3*:「世界を“理解”する機能とは、思考である」

と言える。

つまり、

A2:「世界というのは、知覚がなければ存在しないのと同義である」

と主張するのは可能であるが、それは、“正確な”定義ではない。

というのも、

C:「世界とは、知覚という“身体的側面”と、理解という“精神的側面”を持つ」

ことを見落としているからである。

このことは、命題B3*によって既に明らかである。

ここで、命題Aに対し、

D:「この世の終焉とは、精神的な死である」

と主張することは“できない”。

なぜなら、

C*:「世界は、身体と精神によって成立するものである」からだ。

ここで、

その成立が、どのような順序で起こるかが鍵である。

およそ考え得る順序とは

すなわち、

E1:「身体的な把握である“知覚”は、精神的な把握である“理解”に先行する」

E2:「精神的な把握である“理解”は、身体的な把握である“知覚”に先行する」

E3:「身体的な把握である“知覚”と、精神的な把握である“理解”は同時に起こる」

という三つのパターンである。

そして、

パターンE1が真である。

このことは、読者が、

当論証を目で“知覚”しながら、“理解”を試みていることに自明である。

このことから

C**:「世界は、身体による把握から精神による把握という流れで成立する」

ということが言えるわけであるが、

このことを踏まえて

命題AおよびDを照らし合わせると、次のことが言える。

すなわち、

F:「世界が二段階の把握によって為されることは、その終焉に影響する」

つまり、

F*:「“知覚”としての世界が終わったのちに、“理解”としての世界が終わる」

という構造が成立するのである。

このことは、

F**:「精神的に把握する“理解”の世界が存在する」

ことを意味し、

より正確に言えば、

F***:「精神的に成立する世界が終焉するか否かは、知覚に依存しない」

のである。

なぜなら、

命題C**で見たような順序がある以上、

G:「こと終焉の有無については、連なる二項のうち後者は前者の影響を受けない」

からである。

ゆえに、

∴「世界の終焉は、肉体的な死によってのみでは言明できない」

と言うことができる。

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