3.威張るブログ

二つの芯。(参考→コロ1:9-10)

1.序論

a)あるクリスチャン

→私は未信徒だった頃、二年あまり地域教会に通っていた。そこで、一人のクリスチャンに会った。父と同じくらいの歳で、彼にも私より少し歳下の子供がいるようすで、信徒としての親心からか、非常に親身にしてくれた。

b)決裂

→地域教会に時折通うことを続けてだいぶ経った頃、彼から「信徒になるかどうか、そろそろ決めたほうがいい」と促された。ここには他のクリスチャンとのやり取りが一枚噛んでいて少々複雑な事情があったのだが、それにしても“やや強引”だった。彼は、母を失って未だ深い傷心にあった私に「聖書によれば君のお母さんは救われない」と断言し、「大事なのは君が救われるかどうかだろ」と続けた。彼の身内は皆、クリスチャンである。

c)聖書によると

→彼は聖書を字義通り丁寧に解釈する福音派のクリスチャンだった。確かに“聖書に書かれている範囲内においての教理理解”は、彼の言うところで間違いはないだろう。しかし、彼は教理を全うできているだろうか。というのも、聖書の教えは教理の“理解”と“実践”が両輪で成り立っているからである。つまり、聖書は「生きた教え」であるということだ。

2.本論

d)痛みなき伝道

→聖書は神の御言葉である。そして「神の愛が人類に注がれ続けている」という教えである。だからして、当然、教理について“真の理解”があれば、親を失って回心に踏み出せない若者に対して「身内は救われないけど君自身のことは救ってくれるのが聖書の愛だ」などと説くことはないだろう。自分の身内が救われていて、そのうえで声高に明るく伝道するクリスチャンを悪いとは言わない。ただ、彼らがどんなに大きなはたらきをしたとしても、それは“痛みに寄り添う伝道”にはなり得ないと私は思う。

e)知と実践

→教理理解が聖書的だとしても教理実践がなければ“信徒として聖書的ではない”。信徒にとっては「聖書的な信徒であること」が最も大切であるから“知識に偏っても”“道徳律だけを強調する”でも不適切で、両者を兼ね備える必要がある。

f)私はどうか

→かくいう私はどうか。誰かに対して偉そうに説けるような状態では到底ない。現に「兄弟(つまり他の信徒)と争ってはいけない」という聖書の教えがあるけれども、守れていない。例のクリスチャンに無慈悲な態度をとられ涙した数ヶ月後に再会したとき、彼に謝る素振りが一切ないどころか「然るべきことを言った」と誇らしげだったことが今でも許せないのだ。数年経った今も、である。

g)神の愛

→しかしながら、私に言い訳の余地はない。なぜなら、御父は私の一方的な不孝を、独り子であるイエスを捧げてまでお赦しになったからである。私はかのクリスチャンが苦手だ。でも、そのような狭い心の私は、彼の影響さえも少なからず受けて、神の愛に気づいた部分がある。言わば「人間の不完全な愛に怒った結果、神の完全な愛を知った」のだ。なんとも複雑で深淵な配剤だろうか。いずれ、例の彼も“赦せる”ようになるだろうか。主イエスに近づく道を“両輪”で進んでいれば、きっと出来るようになるはずだ。

3.結論

h)至らなさ

→近ごろ達観してきたのか人の欠点“らしきもの”を本質的に見抜けるようになった気がする。しかしそれは、その人の至らなさが見えているのではない。そうではなくて、“自分の”至らなさが見えているのである。なぜなら「人は自分自身の人格的全体を、他人という鏡によってみる」からである。真に聡い者ならば「人間の欠点は聖書への不信仰以外にはない」ことのみを確実に捉え、聖書の愛に生きるべきである。

i)結び

→聖書の愛に生きようと志す者として、自分のような立場の人がいたら私はどうするか。「“聖書には、キリストの福音を受け入れて信徒になる以外の救いは書かれていない”けれど“未信徒が死した後、どのようなやり取りが神との間にあるのかも書かれていない”んだ。事実、陰府という概念などは深く言及されていないからね。だけど、“聖書全体のメッセージは、神の采配が完全で完璧だということ”だよ。だから、“導きを受けているなら今にあっては回心が最善手なんだ”」とでも言うだろう。悲しみが喜びにかわりますように。

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