『伝道者の書』(『コヘレトの言葉』 とも)の8章6節以下では、この世で悪人が栄えるといった不条理と、神のみわざについて述べられています。
よく、「この世は、悪人が幅をきかせているし、不条理なことが起こるから、神なんているはずがない」と主張する人の発言を耳にします。
私は、このことに対して、
「もし神がいるなら不条理なことが起こることがおかしい」という主張の前提に、「神は全知全能である」という“是認”があるはずだ
との応答をします。
つまり、
“「もし神がいるなら~」という前提条件には、神の超越性がある”ゆえに、「もし~」に始まる人間的な考え方は、どうあっても、“神の超越性をもとにしている必要がある”ということです。
少々、難しい話になってしまいましたが、つまるところ、
「神がいるなら、こんなことは起こらないはずだ」ということを決めているのは“人間”であり、その主張者は、“「神がいるなら」と仮定しながら、神の超越性(人間の知を超えた計画があること)を認めていない”のです。
本当に神の存在を認める信徒は、「どうしてこんなことが起こるんだ」ということの答えを、神の不在に訴えるのではなく、“在られる神”である全能者に求めます。
それゆえ、キリスト者の姿勢には、「どうしてあんなことが」という“痛み”の向かう先が、過去でなく未来にあります。「あのことは、どのようなことに繋がっているのでしょうか」という祈り。それはまさに希望なのです。
我々人間は、ある事象に対して、極めて限定的な軸からしか眺めることができません。
しかし、「全能なる神は、“永遠の観点”から全てを治めておられる」のが分かっていることが、キリスト者のもつ知恵です。
それゆえ、悪人がどのような末路を辿るかは自明で、もはや欠片も関心事ではありません。私などは、悪人(のくだらない情報)に僅かでも干渉されたら毒ですから、できるだけ遠ざけようと心掛けています。自らに潜む罪こそが、真に向き合うべき対象だからです。
私は、とりわけ多くの日本人が、「神は残酷だ」という、とんでもない誤解をしていることが非常に残念です。
「こんな残酷なことが起こって、神なんてあるものか」と言うのと、「こんなことが起こって、神が残酷なまま放置なさるはずがない」と希望を告白すること、どちらに温かみがあるでしょうか。
私にも、嘆きたくなる痛みが幾度もありました。でも、今は祈りによる癒しがあります。
『伝道者の書』は、ソロモン王が書いたという伝承が一般的でしたが、「わたしが治めている期間に~」といった趣旨の記述があること(ソロモン王は終生、その座に着いていました)などから、別の誰かが書いたという説が有力になってきているようです。
この章は、知恵の探求の末に、「この世で起こることは神のみわざによる」という著者の理解で締められています。それは、「すべては空しい」と繰り返す、この巻の書き手が見出した光です。
聖書は、その巻の著者を通した“みことば”です。つまり、「この世で起こることはみわざによる」と、神ご自身が言っておられるということです。
「辛いことも悲しいことも、きっと幸せの前触れだ」と信じ、祈り尋ねることを私は勧めたいです。
お節介かもしれませんが、この提言については、そうであってもいいと思っています。
今日はここまでです。ありがとうございました。