『伝道者の書』。その9章5節では、死についての表現がされています。その中で、死した人の名前は忘れられるという趣旨の、日本の諺で言うならば「去る者は日々に疎し」といったような言葉が出てきます。
聖書は、書かれた時代の歴史的背景、土地の文化を踏まえながら、一連の文脈と全体のメッセージを踏まえたうえで読まなければなりません。私などは、霊的には、幼子もいいところですから、尚のことです。
今日の研究で『雅歌』の学びに入りましたが、“象徴的な表現を祭儀などに当てはめ比喩的な読みをする”、“字義のまま受け取り、愛を謳ったものと受け取る”…など、内容解釈の立場が少なくとも6通りほどあり、それまで「結婚の讃歌として、そこに神と信徒の関係性を暗示している」とだけ捉えていた私は、聖書研究の深みを改めて感じさせられました。
少し脱線しましたが、「死する者は忘れられる」旨が聖書に書かれていたとしても、それを一義的に解釈するのは、やや短絡的です。それまでの内容とこの先の記述を考えあわせれば、「この世での生は仮のものである(ゆえに空しい)」という主張へ繋げる言葉であると解ります。
このように、聖書は死者を軽んじているわけでは決してなく、死後という永遠の時間を想定しています。
ただ、私は、5節の聖句“のみ”をあえて追ってみたいと思いました。
世を去った私の身内で、キリスト教信徒であった人はいません。檀家は、父方が浄土宗、母方は浄土真宗です。
唯一なる神を信じるようになった時から、私は、仏壇で手を合わせることに若干の抵抗があります。
信徒になり、イスラエルの民が行う祭儀を知ると、いっそう、迷いが出てきました。
神社仏閣に参ることには控えめな私ですが、線香をあげて手を合わせるというのは、“故人を思い出して弔う”ことが目的なので、仏壇の前で姿をただすのが神に対する不敬だとは思いません。
ただ、“天に願いが届くのは、大祭司であるキリストを通した神への祈りにおいてのみ”という立場をとる身としては、どうしても戸惑いを覚えるのです。
それは、一日として欠かさず、愛する故人の幸せを、思いの限り祈っているからこそです。
お墓参りはします。
でも、仏壇そのものに、何か力があるのでしょうか。弔いの気持ちを思い出させる効果はあると思います。
しかし、“信徒としては”、どこまでも聖書的な祈りを重視します。
決して、先祖を疎かにしているわけではなく、むしろそれは、想いのゆえなのです。
想いの表し方が違うだけなのです。
こうして、あらためて祈りと向き合うと、
「死した人の名は忘れられる」というのが、愛の教えであるキリスト教的ではないことがよくわかります。
『伝道者の書』が語る“空しさ”は、あくまでも、“この世的な価値観”に向けられています。
では、
死した人は、亡くなって、どこにいるのでしょうか。
この世における、「死後にどこへ行くか」という問いには、個人の信仰による答えがあるのみです。
今回は、仏教の批判をしようとしたのでは決してなく、
私がメッセージを伝える動機でもある、
「愛する故人を思い出す時、その人は自分の中で生きている」
という考えを示したかったのです。
愛する人を愛すのはなぜでしょう。
その人が愛してくれたからです。
その人の持つ愛を愛したからです。
その愛を受け継いで、それを以って故人を想い愛したとき、
まさにその人は生きている。
私はそう考えるのです。
これは、「魂が空間的にどこに行くのか」という話ではないながらも、本質的なことのように思えます。
“聖書の定める救い”は、聖書の中にしかありません(論理的にも)。
しかし、聖書に書かれていないことは黙するべきでもあります。
なぜなら、神の力を人間が勝手に定めることは越権行為であるからです。
未信徒の救いについて、限定的にしか書かれていない新約聖書に長らく反発していた私。
しかし、自分が信徒になる決意ができたのは、
「“故人が救われなければ、私の救いもない”との立場を譲らなかった私が救われた事実こそが、“どうあっても、神が最も素晴らしい方向へ導いてくださる”ことの印だ」と信じたからです。
私は、福音を伝える道を歩みたいです。
なぜなら聖書こそは、愛の教えだから。
それが、再会を待ち望む相手から愛を継いだ自分に、今できる最大限のことであり、
愛する人と繋がる方法でもあるからです。
今日はここまでです。ありがとうございました。