1.序論
a)律法の民
→イスラエルの民にとって選民としての証であり、神との契約であった律法。旧約においては、律法を守ることが義を果たすことにみえた。しかし、キリストが来られたことでそれらは成就され、主イエスは律法主義を非難した。当然、ユダヤ人は反発する。そして、あろうことかメシアたるお方を十字架にかけてしまったのである。しかし、この出来事が異邦の民を含めた人類を“信仰による義”に招いたのだった。このことは「律法に先行して」神が約束しておられた。
b)不可能性
→使徒パウロは「一点でも反したら全体に違反したことになるゆえ、律法を踏襲しても義と認められない」ことに加え「律法を踏襲したように思えた場合には高慢という罪に陥る」との論理を展開し、同胞のユダヤ人に神によって成就したキリストの福音を伝えようとする。
2.本論
a)旧約からの例証
→使徒パウロは、ロマ書などで“アブラハムの例”を挙げる。すなわち、父祖アブラハムは「信仰によって義と認められた」のであり、それは律法成立以前のことである。ゆえに、信仰の父祖として代表される彼がそうであった以上は、すべての人間は信仰によって義と認められるということである。
b)律法の役割
→信仰によって人々が義と認められるなら、律法の役割は何だったのか。パウロは「律法が無意味であったはずはない」と断言した上で、それはいわばメシアが現れるまでの“養育係”だったと語る。つまり、律法によってその到達が不可能であることが明らかになることで、人々がキリストに至る為なのだと。
c)キリスト以前の信徒
→では、キリストが来られる前の信徒はどのように救われるのか。信仰による救いの成就に際する布石として、達成不可能な律法が据えられたなら、どうやってアブラハムに倣うことができたのか。筆者の考えによれば、それは預言者に託されていた。
d)歴史書と預言者
→イスラエルの民が辿った歴史の歩みには、常に、神によって立てられた預言者が同伴した。そして、彼らはメシアの到来を伝えた。その本質は、偶像礼拝に代表される律法違反を繰り返し、その重責を問いただされた民が絶望から「メシアの到来を待つ信仰」に至り救われることにあったのである。
3.結論
a)メシアとキリスト
→以上にみたように、モーセ律法が旧約の民に与えられたわけは、その不可能性ゆえに「メシアを待ち望む信仰」に至り、神に助けを求めることで救われるところにあった。そして、新約の信徒は「キリストの贖いと復活を信じる信仰」によって御霊の律法を受け、神の導きを受けることで救われる恩恵を受けているのである。
b)旧約と新約の交差並列
→つまり、旧約の歴史は“「メシアを遣わす」という父なる神の約束”(ーα)を土台にして“律法が与えられ”(ーβ)、預言者のメッセージによる“メシア到来への信仰”(ーγ)が救いへの道であった。そして、新約では“キリストは既に到来し預言された贖いが成就したという信仰”(ーγ’)により“御霊の律法が与えられ”(ーβ’)、“「メシアの再臨」という黙示録の終末預言”(ーα’)に生きているのである。
c)信仰の性質
→どの時代、どの国にあって、どのような状態であっても、「唯一なる神の御力なしには何もできない」という事実と「信仰によって恵みに与る」ことで救われるという道は変わりない。この世界に聖書があることが、その印であり、神の臨在を証しているのだ。