3.威張るブログ

信仰の自由。(参考→IIテモ4:3-4)

1.序論

a)信仰の自由

→この標語は、本来必要のないものである。なぜなら、信仰は意思に基づくものであるからして、制限されていようといまいと行使できるべきだからだ。人は「~してはいけない」と言われると破りたくなるが「~は自由である」と言われると怠けてしまうものである。危惧すべきは、この文言は“無宗教”(ムシュウ・キョウ)の入り口になり得てしまうことだ。

2.本論

b)無宗教

→人は何かを信ずることなくして生きられない。ここで留意しなくてはいけないのは「信じること」と「信仰」は“同じではない”ことである。「信じること」には二つのベクトルがある。一つは能動的ベクトル、もう一つは受動的ベクトルだ。前者は“信仰”であり、後者は“盲信”である。つまり「自分から意思して信じること」のみが信仰なのである。キリスト教に“偽物を含めた”多くの形があるように、無宗教にも形態がある。私は「無宗教がいけない」と言いたいのではなくて「“この世教”というカルト(偽物)に気をつけなくてはいけない」ということだ。

c)この世教

→これは恐ろしいカルトである。「名乗らない」こと「判断能力を奪うこと」という特徴が合致する。その本質は“同調”にある。周りに足並みを揃え、自分が「おかしい」と思っても「仲間もしているから」と吟味しない。これは、カルトが仲間意識を植え付けて意思能力を奪う手法と同じではないだろうか。よく「こういう手口がある」というメディアに「こんなことに騙されるなんて浅はかだ」とコメントする人がいる。じつのところ、その人はメディアの情報範囲でしか手口を理解していない時点で「自分は偏重報道に騙されています」と表明してしまっている。情報過多の時代においては、なおいっそう意思が試される。疑心暗鬼になる必要はない。大切なのは「なぜ?」を外に向けるのでなく自分に向けることだ。

d)対策

→自分が“信仰している”か“盲信しているか”を判定する方法は「自分が信じているものについて臆さず言明できるかどうか」である。このツールは非常に重要だ。これは「自分について言明する」ことに等しく、私が言わんとしていることは「人であるならば、意思という権利を行使せねばならない」ということである。意思が行使できているならばそれは自ずと言語化できる(「発話せよ」という意味ではない)のであって、ひいては「自分として生きる」ことに繋がっていく。

3.結論

e)愛ある人

→私は“聖書の教え”を強制しようとしているのではない。そうであっては、この論考の意味がない。自身が「信仰の自由」という言葉に流されていたことを伝え、あらためて“意思を奪うカルト”の恐ろしさが解った旨を伝えるところが意図である。「みんな、それぞれが自由にやればいいじゃん。それがハッピーだよ」。聞こえはいいが、今の私にはなんだか一種の“ラブシャワー”にもみえてしまう。確かに、その人の選択権を奪ってはならない。しかし、自分の信ずるものを“選択肢”として提示しなければ、それは間接的に隣人の選択権を奪うことになるまいか。「自分の内面を自白せよ」と言っているのではなく「自分の生き様が問われている」という自己意識を持ち続け、行動によって“自己としての意思”を吟味し続けるべきだということである。行動とは多くの場合、言語行為であるから、聞き手としても発話者としても「耳障りのいい話に安易に走ってはいけない」と私は言いたい。

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