1.序論
a)信仰という条件
→聖書によれば「人は信仰によって義とされ、救われる」。救済史の起点となった旧約時代のイスラエルも、新約に生きる我々も、本質的には“神への信仰が求められている”ことに変わりはない。どうして神は、ご自身への信仰を人類に求めるのか。
b)愛の神
→人間に自身への信仰を求めるのが「神のエゴだ」などと言う、とんでもない人がいる。もし、神に欲望的な信仰強要の意図があるなら、意思決定の余地を残すはずはない。恐れ多くも神を非難する人々は、その発言が忍耐されている事実に気づくべきだ。なぜならば、御父を罵る者は「神から柔和と忍耐ゆえの愛を既に受けているから」それができるのである。
2.本論
c)世の法律
→では、なぜ神は、自由意志を認めた上で立ち返りをお求めになるのか。一番の理由は「人間が不完全だから」である。人間の罪をいたずらに強調すべきではないが、“この世”の法律は基本的に「人間の良心のみに基づいている」から、それが“人間基準”である以上、その域を出ない。これは国によって規則が違うことに明らかだろう。
d)義の神
→だからして、聖書は、神の掟に従って生きる道を教えている(加えて、人間の法を破ってはいけないことを教えていることにも注目すべきだ)。旧約の律法は、キリストの贖いによって、内住の聖霊が示す“御霊の律法”として新しい約束となった。ただ、その本質は変わらず「神の導きを行動基準として、愛に生きる」ところにある。
e)不可能性
→しかし、神の掟を完全に踏襲できたのは主イエスただお一人である。「律法によって義とされるのは不可能である」からこそ、全きキリストの贖いが必要だったのである。
3.結論
f)福音
→キリストの十字架を信じ回心した者には“御霊の律法”が与えられる。したがって、信徒には内住の聖霊が導いてくださる恵みがあるわけだが、どうして「信仰によって義とされるか」と言えば「己が力では義しく生きられないが、自分は神の掟を遵守したい」という“意思の表明”をまさしく十字架への信仰によって為したからである。
g)神の掟
→自分を基準として生きると、やがてどうしたらいいか分からなくなる。そうすると人は「世と歩調を合わせる」ようになる。“世”(空間としての被造世界ではない)とはなんだったか。それは不完全な混濁である。だが、全能の神が定めたご計画には、そのような不完全さが必要だった。それは「不完全な闇においてこそ完全な光は示され、選択権が愛の証である」ゆえなのだ。
h)悦び
→私が聖書を勧めるのは(以前とは違い、)「裁かれないようにするため」ではない。愛と貪り-すなわち光と闇-が“良心”という複雑なバランスで混ざりあう葛藤の世界で「全き愛を目指して生きるという“決定”ができる悦びを体験してもらうため」だ。貪りという濁りに疑念を抱きつつも、それを放置して生きることは苦い。“愛に生きる道”がどこにあるか分からないからである。私は言おう。「聖書がその唯一の道である」と。