3.威張るブログ

信仰はひとつ。(参考→IIペテ1:16,IIテモ4:3-4)

1.序論

a)選択のジレンマ

→「聖書以外の教えについて吟味する必要はないのか」という問いについて考えてみよう(※この論考は、今の自分に迷いがある人に向けてお送りする)。まず、要点は“信ずる対象についての吟味”というものが「選択肢の吟味」と「選択内容の吟味」のどちらであるべきかということである。どのような選択肢があるか知らなければ“自分にとっての救い”に至れない可能性が高い。かといって選択肢の内容を深く学ばなければ“その教えが選択肢になったと言えないかもしれない”というジレンマがあるのだ。

b)選択肢と内容の吟味

→実は、明確な意思によって能動的に探求することは愉しい。しかし、地上生涯には限りがあるからして、選択肢の吟味を迷いすぎるわけにもいくまい。コツは「遠回りに思えることが近道である」という先人の知恵を用いることである。この勧めは「内容の読み取りに時間がかかるものは“実”(じつ)が伴っているからして空虚である可能性が低い」という論理に基づいている。そして、私が知りうる限りもっとも“回るべき近道”こそは聖書なのである。私は「聖書を精読した上で(信ずるかは別として)、その教えから何も得なかった」という人には出会ったことがない。冒頭の言葉は、つまるところ「自分が納得できるところに、どうやったら至れるか」ということであり、それは経験によるところが大きいが、聖書以外の教えを後回しにしていい理由を積極的に言明してみよう。

2.本論

c)新興宗教

→まず、これは相手にしなくてよい。そのわけは“歴史の欠如”にある。もし、その“教祖”が言うところが正しく救いに至る道であったとすれば「開祖の説法以前の人々については救えない」ということになる。その時点で教説の力は知れたものであり、嘘っぱちであることが明白だろう。したがって「救いについては“伝統”(救済史)というのが非常に重要」である。これまでの人がどのように救われたのか説明できることは必須なのだ。だからして伝統ある教えは“有意味な権威”がある。

d)輪廻

→先の話にも通ずることであるが“生まれ変わり(輪廻)”を教えるものは除いてよい。なぜなら「その人の魂を(その人として)救済できるものであれば円環的な時間軸を考える必要はない」からである。もし真に人を救うものであれば、一つの教えの中で救済が完結していなければおかしい。そのキョウテンに輪廻が入っていた時点で「“書かれた教え”を受け入れることでのみ“この私”が救われる」という一回性が損なわれるということだ。

e)わざか信仰か

→そして“行い”が救いにおいて優先性を持つ教えは精査すべきである。なぜかというと“わざ”が救済方法になると、信仰が本来的に持つべき能動的ベクトルが損なわれるからである。つまり「信仰によって救われた者に結果的として行いがついてくる」のが本来的であり「行いによって救いを得ようとする者はその動機が自己の救済にある」点が非常に危ういということだ。

f)残ったもの

→さて、以上三つの観点に基づけば、自ずと選択肢は絞られたと思う。多くの人にとってはおそらく「キリスト教」「仏教」「無神論」になったのではないだろうか。そこで「もし、あなたが“救い”を求めているのであれば」“悟り”を追及するものと“思考停止”を迫る後ろの二者は考えなくてよい。そうすると、あなたが信ずるべきものは一つになるわけだから、それを「××教」と言う(カテゴライズする)必要はもはやないからして、あなたが信ずるべきものは「聖書のみ」となる。

3.結論

g)聖書の真理性

→「創世以来から預言的な未来までを網羅した救済史をもつ教えであり,救済の一回性を誤魔化さず,意思という動機を信仰によって育み,自ら救いを選択させる,」という教えは聖書にしかない。ここに聖書の確固たる可能性が提示され、他の教えが後回しでいいことが解っていただけたかと思う。

h)疑い

→残るは「聖書が救済の書ならば、それが届かない人がいるのはどうしてか」という疑念だろう。そのことについては既に答えが出ている。まさしく「それ」である。聖書を読むときに信仰は必要ない。しかし、疑いは不要である(というか、あってはならない)。「聖書の完全性は認めるけれど、だったらそれが届かないのは…」という論は、完全性を認めていないから出る“疑い”である。それを不義の言い訳にしてしまったら負の連鎖が続くことは分かるだろう。聖書の通読は非常に根気がいるが、なればこそ、そこに自由と真理がある(聖書による救いは、聖書のうちにしかない。しかしそれは未信徒を無視するものではない。民14:18はその手がかりになろう。他の論考も参照していただきたい)。

-3.威張るブログ
-