2.聖句の悦び

信徒としての立場。(参考→マタ5:18,Ⅰコリ4:6)

洗脳されてカルト信者になりかけ、度重なる試練から無神論者のようになり、真理を追う哲学人となって、唯一神信奉者からキリスト者へ。そこからの一年は、異端的(あるいは、自由神学的)な信仰から、福音主義的立場に至る日々でした。今年の総括として、現在の信徒としての在り方を書き残しておこうと思います。

回心した私が挑戦していたのは「聖書に未信徒が救われる道が書かれているか」という探求でした。それは、“聖書を字義通りに読む”営為から程遠い解釈をすることであり、まさしく自由主義神学でした。それでも、私は必死でした。なぜなら、私の身内で生前にキリスト者となった人はいなかったからです。「キリストを信じないと救われない」というのは、確かに聖書の教えです。しかし、身内がみな信徒になっている人から、立場の違いを考えず、「あなた自身が救われるのが大事なんだ」と言われても、未信徒にしたら「いや、そうかもしれないけど、あなたの身内は救われてるんでしょ」という感じで、“個人的な救い(教理的には確かに事実)”を強調されても、その信徒が「お気楽」に見えてならないのです。そういう、「自分たちは救われている」ということに安んじて、「あなたがたも救われましょう」とお節介に(思えても仕方ないような)伝道をしている(ように映る)人たちへの、一種の反骨心から、“キリストの福音が届かなかった人の救い”を探究していた私でしたが、聖書を読めば読むほどに、その一貫性と無誤謬性に気づいて行きました。

カルトに洗脳されかけた過去の経験から、聖書を比喩的に読むことが危険極まりない愚行だと熟知していた私は、記述通りに読みながら“解釈”に幅を持たせることを意識していました。しかしそれは“文字通り”には読んでいましたが、“字義通り”ではなかったのです。自分なりの解釈を取り入れながら通読を三周近くした頃、私は重大なことに気づきました。

1.黙示録の象徴的記述以外に、死者がどこに行くかという“明確な”記述はない。

2.未信徒が死(の前後)に際し、神とどのようなやりとりをするかは書かれていない。

3.“福音の三要素”を信じる以外の救いは、聖書には書かれていない。

4.聖書の全66巻が一貫して主張しているのは、神の完全性である。

ことです。

聖書を読めばそれほどに、神が完璧な存在であることが分かり、そのゆえに「神の“御言葉”である聖書に人間的な解釈が干渉する余地はない」と解ったのです。「全知全能である神が、人間の不完全性を考えないはずがない。聖書が字義通りに読めるものなればこそ、神の完全性が示される」ということです。そして、「聖書に直接書かれていないことに言及するのは越権行為だ」と考えるようになりました。それは、「神が完璧なお方であることを欠けなく示したのが聖書なのだから、そこに書かれていないことは、神にお任せするほかないし、それは最善で最高の結果につながる他あり得ない」という悟りでした。

私は、無神論(ニーチェ哲学)、多神教信仰(ギリシャ神話)、自由主義神学(人間的な聖書解釈)も経験しました。言わば、≪徹底的に“未信徒をした”回心者≫ということです。この点は、かなり特異だと思いますが、この点にこそ私の“召し”がある気がするのです。つまり、教会に行こうと思えないこと、聖書に対するたじろぎ、そういった気持ちがよくわかるということです。

1.“教理の強調点”が教会によってまばらになり、聖書の本来的な一貫性が“未信徒にとって客観的に”揺らいでしまうこと。

2.三位一体を主張しながら(讃美されて然るべきお方ではあるものの)、位格的な差異がないはずのイエスに感謝が偏っていること。

3.聖書に対する字義通りの解釈は、“限りなく間違いのない読み”を可能にするが、その過剰な自負は“聖書が黙していることは、「聖書は黙している」とし、信徒も黙す”という姿勢を崩し、結果的に“聖書の外側”に対しての高慢につながり得ること。

現状の私は、聖書を字義通りに解釈する福音主義的立場に依りつつ、上記の点が躓きのもとになりやすいと考えています。

さて、先の三点に基づいて“無教会主義”を提唱しながら、「こういう信徒もいるんだよ」と、日々の信仰生活を綴っていこうと、いよいよ動き出しました。来年は引き続き、聖書の研鑽とエッセイの執筆を続けながら、日々の新たな霊的発見を、皆さんと共有したいと思います。

今年も読んでくださり、ありがとうございました。良いお年を。

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