2.聖句の悦び

信徒と罪。(参考→ロマ7:1‐6,Ⅰコリ5:7)

Q.信徒が罪を犯すことはあるのでしょうか。

A.あります。

少なくとも、私は未だ、明らかに罪を犯しています。使徒パウロの書簡で述べられる組織神学を、これまでの自身の信仰生活と照らし合わせてみたいと思います。

聖書は、全66巻のそれぞれが異なるテーマを扱い、信徒への適用を含みながら、創造以来の計画を実証する、神による緻密な作品です。ゆえに、どの巻も重要ですが、“教理の核心的な部分を扱っている”のは『ローマ人への手紙』でありましょう。特に、7章と8章には、信徒になってからの葛藤とどう向き合うかが書かれています。非常に高度な論理が展開される本書ですが、特に難しいのは、律法からの解放についてです。『コリント人への手紙 第一』も参考にしつつ、考察していきます。

1)信徒は肉において死に、生きている人間を戒める“モーセの律法”は適用されなくなった。しかし、そのことが罪を犯してよい理由にはならない。

未信徒は、福音の三要素を信じたとき、キリスト者となります。その瞬間に、神から罪を赦され、“聖霊の内住”が与えられます。これが新生(=肉において死ぬ≒未信徒ではなくなること)です。この時に、信徒は死を通過したことになり、「~してはいけない」という、生きている者に適用される古い律法から解放されました。このことを聞いて、「キリスト教徒はいいなぁ、何をしてもいいんでしょ」と思う人は少ないのではいでしょうか。「もっと厳しいものかと思ったら、案外、自由なのね」と驚く人のほうが多いでしょう。しかし、前者と後者、いずれも誤解です。信徒も、罪を犯してはなりません。これは、どういうことでしょうか。

2)信徒には、聖霊の内住が与えられ、そのお方が“御霊の律法”となられた。

信徒は、“モーセの律法”から解放されました。しかし、「人は必ず誰かに仕えなくてはならない」のです。信徒は、その主人が、罪からキリストになったのです。その状態において、“御霊の律法”という新しい基準のもとに新生しました。“律法”という表現より、“原理”と言うほうがいいかもしれません。「~してはいけない」と“禁ずる”類の戒めではなく、「~したくない」と“諫める”感覚だからです。つまり、信徒は、「~したい」という欲望に駆られるのではなく、「~したくない(のにしてしまう)」という葛藤のなかを生きているのです。信徒は,α)“罪”が何たるかを知っている. β)「罪を“犯したくない”」と思う.という点において未信徒と違います。しかし、「~したくない」と言いつつ罪を犯しているようでは、誤魔化しではないか。確かにそのように思えるのですが、信徒には聖霊が内住しているので、罪を犯したときに、大きな痛みを感じます。わかりやすく喩えれば、“強烈な後悔”です。現状の理解では、このことを通して、聖化(信徒としての成長)が起こると考えています。

3)信徒には、罪のパン種がない。

難しいのは、「~したくない」と躊躇ったり、のちに痛みがやってきたとしても、「罪そのものを自力で抑え込むことは不可能である」ということです。では、どうすればよいのか。そこには、「信徒が“能動的に”罪を犯すことはない」という理解が必要です。先にみたように、「~したくない」と思えるようになるのが、聖霊の内住を与えられた信徒の性質です。そもそも、「キリストに自分の罪が転嫁され、十字架と共に葬られる」ことを信じることで、信徒のうちには罪のパン種(発酵して腐敗する原因)がないのです。≪つまり、「信徒は、(この世の影響を受け)受動的に罪を犯すことはあり得るが、(自ら貪るようにして)能動的に罪を犯す可能性はゼロである」ということ≫です。よって、「信徒は、罪とみなされる(⇔義認)ことがない」のだと。しかしそれは、“放縦の口実”になることはなく、むしろ“赦してくださる方への不貞の叱責”となる。このことが、“御霊の律法”だと私は考えています。

4)古いパン種が残っている。

キリストに贖われたはずの信徒が罪を犯すのは、未信徒だった頃の性質(あるいは習慣)が残っているからです。信徒自身には“パン種(能動的な罪のもと)”はありませんが、“古いパン種(能動的な罪の記憶)”が残っていて、それが、受動的罪という発酵せざる発酵(欲しないで犯す罪)を引き起こすのです。信徒には、この古いパン種を除くことが要求されています。

つまり、

a)信徒も罪を犯すが、それは“受動的罪”であり、“能動的罪”ではない。

b)ゆえに、信徒が自分から欲して罪を犯すことはない(罪を犯す必然性はない)。

c)信徒が“罪と定められない”のは、“その恩寵を受けながら罪を犯すこと”自体が痛みを伴う罰だからである。

ということです。

「罪を犯したくない」にも関わらず「罪を犯してしまう」という“葛藤”があることが、救われている証です。本当に罪深い人には、葛藤などありません。しかし、結果として放縦になっては意味がありません。“受動的罪”の原因である“この世のよからぬ風潮(ex.ポルノ)”を上手に遠ざけましょう。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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