2.聖句の悦び

割礼はわざの象徴。(参考→ピリ3:2‐3,ガラ2:16)

イスラエル民族の男児に、その“神の選民たる証”として施されていたのが、陽の皮を切り取る“割礼”です。この通過儀礼は、数日間動けないほどの痛みを伴うようですが、それでもユダヤの文化に未だ残っているのは、この行為が救いの印であると考えられているゆえです。

しかし、ことパウロ書簡において、「割礼は救いの条件ではない」ことが言及されます。特に際立っているのは、アブラハムの例による論証。彼は「信仰によって義と認められた」と書かれていますが、使徒パウロの例証する通り、割礼はそれから随分と後になってから受けたのです。つまり、「割礼は救いの条件ではなく、信仰の表明としての印である」ということです。このことは、キリスト者における洗礼についても言えることでしょう。

ただ、割礼と洗礼は、性質を異にします。どちらも本質的(本来的)には信仰の表明ですが、イスラエル民族は、「割礼を受けることが選民たる証であり、救いの確証である」という誤解をしてしまったからです。そして、割礼は、いわば“わざによる救い”を象徴したものです。つまり(強い言い方をすれば)、本来はまさしく選ばれた民としての証であったはずが、神の恵みによらず、人(自分)の手によって救いを得ようとする“高ぶりの印”になってしまったというわけです。

新約においては、律法(すなわち、旧約聖書全体)はキリストにおいて成就しました。ですから、福音の三要素(1.イエスは我々の罪のために死なれ,2.墓に葬られ,3.三日目に甦られたこと)を信じた時点で救われます。よって、新約の時代、異邦人でありながら救いに接木された我々にとっては、まさしく“グッドニュース”なのです。ですから、洗礼は信徒になって受ける(べき)ものですが、救いそのものには関係ないのです。もし、洗礼が救いの条件だとしたら、信仰より先に“わざ”として身に刻まれる割礼と、あまり変わらなくなってしまいます(このゆえに私は、物心つく前の幼児洗礼には、特別な理由がある場合を除き、やや懐疑的です。当然、のちに信仰に入るわけですから救われますし、キリスト者の家庭に生まれるのは確実に一つの祝福だと思います)。

そして、福音を受け入れることは、わざによる救い(=救いならざるもの)と大きく異なります。わざは“自分の行い”を信じること(いわば、自力)ですが、福音は自ら遜り人となられた“キリストの謙遜”に感謝して父なる神を信じること(いうなれば、他力)だからです。

では、どうして、父なる神はイスラエルに割礼を課したのでしょうか。その答えは、まさに「福音の価値が高められるところにあったのではないか」と私は考えます。人類の救済史は、選民たるイスラエルを中心に進み、彼らには厳粛で複雑な律法が与えられ、それだけ時間のかかる行いをすることによって神への畏敬を示す“信仰”が求められていました。その“跡”が旧約聖書として残ることによって、新約に生きる我々は“信仰が集約された福音”の価値が解るわけです。神から選ばれた彼らでさえ躓くのですから、「福音による全人類の救済における起点として複雑な律法を遵守する」ことが異教の民にできるはずがないのです。異邦人でありながら選民イスラエルによって“高められた”福音の恵みに与れることを、我々は旧約の人々に感謝しなければなりません。

そして、今の新約時代においては、イスラエルの人々も異邦人も、同じ福音によって救われます。このことは、父なる神が計画し、その義に基づいて約束しておられたのです。なればこそ、信徒はその伝道に努めなくてはなりません。私がこうやってエッセイを書いて伝道に携わる際、その動力になっているのは「今の私であれば、生前の家族に正確な伝道が出来たはずだ」という一種の悔しさに似た気持ちです。キリスト者になるまで、家庭にはおもに私がもたらしてしまった多くの苦難がありました。しかし、それでも私が救いに至ることができたのは、父なる神が私の愛する人たちを用いてくださったからだと感じます。それは、私の家族が注いでくれた愛(私の家族が持つ愛)が、神に認められたことだと思うのです。ですから、死に際して未信徒であった故人と神の間に何があるかは分からないですし、私はそこに切なる希望を置いていますが、今の私に(供養のように)出来ることは、福音が届かなかった身内から受け取った愛に基づき、その人たちの“今も生ける愛”を以って行動することだと思うのです。そのことによって他の誰かが救われたら、「その救いは、当人だけのものに非ず」であり、愛が報われたという意味で未信徒だった故人の救いでさえある(そしてそもそも、“全知全能の神”に全幅の信頼を置いている私には、愛する人の救いをはじめ、すべてのことが最善に治められるという希望と確信がある)のです。

だから今日も私は、霊に燃え信仰に燃えて励みます。

最後までありがとうございました。

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