捕囚から帰還した民による神殿再建の後、メシア時代が到来しないことで、霊的に無気力になっていた民を激励するべく書かれたのが、旧約聖書を締め括る『マラキ書』です。
その2章17節では、
<悪を行う者を神は喜ぶ>
<裁きの神はどこにいるのか>
と、悪を平気で行う堕落したイスラエルに、
神が疲れておられる旨が書かれています。
この箇所は、数通りの解釈が可能ですが、
「悪を為してもなんのことはない。裁きがない以上、神はいないのだから」
と受け取るのがいいかと思います。
(字義通りに聖書を読むのが、本来的であるゆえの難しさを持つことが垣間見えます)
さて、
「悪いことをしても罰がないのだから、好き勝手していい」
という短絡的な愚かしさは、
陥らないよう誰しもが自己省察せねばならない考え方ですが、
“神の忍耐にとことん甘えている現代の有り様そのもの”です。
というのも、冒頭で書いた通り、
『マラキ書』は、メシアが来ないことによって信仰が弱まった民を叱責することを目的にしており、
“再臨のイエス”(あるいは“最後の審判”)を待ち望む今の時代は、
キリストが(再び)来られることを待っているという意味で、
言わば、“第二のマラキ書時代”だからです。
我々が悪を為すとき、そこに後ろめたさを覚えるのはなぜでしょう。
何かしらの形で、法を破っているからでしょうか。
もしそうなら、そこに罪悪感があるのは、
見つかるのを恐れるという、自己防衛の本能によるのでしょうか。
おそらく、違うと思います。
我々が悪を為すのを恐れるのは、
“見つかるのが恐いから”ではなく、“見つかっている”という意識があるからです。
なぜなら、
本当の意味で悪に染まっている人間は、
法を破るかどうか
という点は、“行動基準”であって“畏怖の原因”ではなく、
悪を為している
ことには興味もないはずだからです。
“悪が何たるか”
ということが判断できるうちは、
“善が何たるか”
を理解できる状態にあります。
それが、
“法に触れるか否か”
という基準になった時、そこには
隣人愛に基づく善悪の吟味などはなく、自己愛に基づく保身欲しかないからです。
ゆえに、
悪を為している
あるいは
悪を為してしまった
ということへの“後ろめたさ”がある以上は、
人間社会の法律に基づく制裁ではなくて、予め備わった善性に責められている。
その人は“法を恐れているのでなく、実は、神を畏れている”のです。
ですから、
当該の箇所を実際に読んだら、ほとんどの人は、
「もし、本当に神がいたら…」
と僅かでも慄くはずです。
そうでないとしたら、
その人は、
キリストの福音を信じ既に神と和解した義人である
か
終末に裁かれることが決定的な罪人である
かのどちらかです。
人間の意思に善性が備わっているのは、“人格が本来的に神の似姿だから”であり、
聖書の冒頭に置かれた 創世記 に、その思想が書かれています。
我々に善悪の判断ができるのは、絶対的な善があるからに他なりません。
“真・善・美”
に誰も文句をつけようがないのは、
我々が
“真と善と美、そのもの”を“知っている”からではなく、それらが“ある”からでしょう。
なればこそ、
“唯一の神”
という概念が絶対性に基づくのは、
決して“人間が創り出した”からでなく、“創造者として在る”お方だからです。
以上の論考から言えることは、
「後ろめたさがあるのは、誰かに背いたから」であり、
その善性が残っている以上、その人に善はある。
ということは、背いてしまった“誰か”が指し示すのは“神”である
事実です。
もし、
「こんなに悪を積み重ねてきて、今更、後戻りはできない」
と考える“善い人”がいたら、あなたは“義なる人”になれます。
神によるキリストの十字架を僅かでも侮ってはいけません。
それは、旧約聖書冒頭の天地創造から既に計画されていた、完璧な贖いです。
「メシアはやってくる」。その預言によって新約聖書につながっていく流れの美しさは、ぜひ実際に聖書を順に読んで感じ取ってください(一周目は、丁寧に読みすぎないというのがポイントです)。
そのダイナミズムに魅入る頃には、「救いは実感である」ことが体験されていることでしょう。
今日はここまでです。ありがとうございました。