4.終始と三項

反キリスト。(参考→IIヨハ1:6-11)

α:聖書には「反キリスト」という危険極まりない“獣”が出てきます。これは、人々を偽りの教えに惑わせる、サタンの手先です。「キリスト教は都合が悪いと悪魔を出す」と言う人がいます。その論者自体が既に惑わしを受けているか、あるいは危険な存在です。正確には「聖書を知らぬ人は都合が悪い時だけ神を“思い出し”恐れ多くも文句を言う」でしょう。ただ、これは人々に非があるというより「悪魔」が抽象的に描写されすぎることに問題があります。しかし、「“獣”という“人ならざる者”を作り出しているものがサタンである」と考えれば、見えざるものながら捉えることができます。例えば、搾取的な社会構造などです。

§:信徒としてはたらきをしていると、サタンの阻みをいっそう感じます(もっとも、これは自分の“罪”ゆえの躓きの場合があるので、難しいところですが、すべてを悪魔のせいにしてはいけません)。私が悪魔の話をしているのは、奴に罪を負わせたいからではありません。そうではなく、罪を負ってくださったキリストを妨害している事実を伝える必要があるからです。

§:皆さんは、ナザレのイエスに、なぜ人類の贖罪ができたか説明できますか。そこに至るまでにどれだけ緻密な救済史があるかご存知ですか。もし、「右向け右」で同調的に興味を失っているとき、その群れに“反キリスト”が混ざっていたら、あなたは「この世の神」(サタン)に支配されかけていることになります。何が言いたいかというと「人は二人の主人に仕えることはできない」ということです。これは「人は二つの軸を信仰することはできない」とも表現できます。つまり「人は必ず何かを信じなくてはいけず、その対象に“仕える”」のです。「俺の神はオレだ」という人は、自分の欲求に仕えているわけです。

§:家に二人組で来て「功徳が~」と語る訪問者は置いといて、一番気を配るべきは実のところ“身近な人”です。なぜなら「この国において信仰者は1%以下」であり“正統信仰”となったら、もっと危ういからです。だから「日本人はさ、色んなものに神を見出して大事にするのが素敵だよね」とかいう“虚”がまかり通るのです。私は過激でしょうか。信徒からしたら、人々を惑わす発言こそ危険です。反論は、1)多神教,2)無神論,3)科学信仰,がどのようなロジックに基づくか説明できれば成立します。果たして、できるでしょうか。できなければ「同調的な盲信」をしていることになり、“反キリスト”の影響を実証することになります。

Ω:強い主張をしましたが、理由があります。(まだ青いですが、)私は[聖書]という“論文”を読み込んでいるからです。だから、主張に“裏付け”があるのです。世にある多くの人々が(とりわけネット上で)、論拠なく“感想”に生きているのが危険だと言いたいのです。「会話をすべきでない」などという愛の冷え切ったことを言いたいのではありません。そうではなくて「発言」を“する”にも“聞く”にも慎重にならなくてはいけないということです。極端に「懐疑的になれ」という意味ではなく「なぜ?」という“一拍を置く”ということです。さもないと、やがて意思を見失います。「聖書を信じろ」という命令をしたいのではありません。そうではなくて「人が何かを信じなくてはいけない以上、“同調による盲信”だけはいけない」と勧告したいのです。いつも意思を行使してください。“あなた”であることを捨てないでください。伝道に躍起になって愛を失わぬよう、私も気をつけます。サタンは天使長だったのですから。

-4.終始と三項
-