4.終始と三項

善悪のシーソー。(参考→Ⅲヨハ1:11)

α:意思ある人は善を追求します。しかし、“善”には限界があります。「勝った者が正義だ」という一見するとそれらしい文言がありますが、この言葉のいう“勝利”が何を意味するかで話は変わってくるでしょう。こと思想において“勝利”というのは「どれだけ物事に処せるか」で示される“真理性”にあります。そして、朽ちない栄冠が真に相応しいのは「人と争わない」ところにある。それが、聖書の“敗北するという勝利”つまり「勝とうとするエゴを愛によって打ち砕いて敗北させる」信仰なのです。

§:当該の聖句では「善を行う者は神に属する人である」旨が語られます。このことは「善行によって救われる」という“わざ”による救いを連想させます。しかし、この箇所からその思想を断定することはできません。むしろ、全体を考え併せると「善を完璧に行うために神の側につこうとする者が、主に属する者である」との読み取りが妥当でしょう。ただ「善を為そうとする人は、神に属することができる」という余地は、持っておいていいかもしれません。

§:「人は善を完璧に為すことができない」という命題は、言い換えると「人は“自分基準の善”のみを為すことができる」と表せるでしょう。善悪という二項対立のシーソーに乗っているとき、限りなく善の側に寄ることはできます。しかし、シーソーは地に着きます。地面に落ちてしまうのは、悪に寄ったときと“本質的には”変わらないのです。どうしてかと言うと、そもそもこのシーソーに善と悪はなく、どちらかの「極」に人が勝手に“善”か“悪”かを置いているだけだからです。だから、「性行為を撮影した高校生カップルの片方だけが罰せられるのはおかしい」。「いや、リベンジポルノの可能性もある」。とかいう“むなしい”善悪の議論が起こるのです。「結婚という契約を見据えずして行為に及んでいるであろう」という“愛の欠如たる根本問題”など誰も指摘しないからです。

§:善悪の議論が無駄だとは思えません。なぜなら、それがなければ“義”も明らかにされないからです。人が善と悪を本気で探求すれば、必ず「判断できない」という壁に突き当たります。多くの衆生は「それはそれ」とつい怠けてしまいます。だから、善を求めてもやがて墜落します。先に述べた「完璧に善を行おう」と“意思する”者だけが、シーソーの真ん中に立てるのです。そう、善悪で傾いているのが間違いなのです。すべての物事は“正負”であり“陰陽”でもある。だから議論はぶつかり合うのです。その先に何があるか。「数」です。シーソーの両極が正確には“陰陽”である以上は、多くの人が乗ったほうに傾きます。相手は宙に浮いています。しかし、実際に「地に堕ちている」のは自分かもしれません。少数者を否定することで自分を肯定したからです。その「同調」が本当に“善”と言えるでしょうか。その答えはないのです。あるのは「勝敗にこだわり“支点”に至らなければ、不安定なままである」事実です。

Ω:物事の勝敗にこだわる人がいます。地上生涯において人間は、何かしらのシーソーを選んでバランスをとるのです。しかし、自分の乗っているほうが地について、相手を宙に浮かせたらといって勝ちなのでしょうか。あるいは、自分が宙に浮いて相手を見下ろしたら勝ちでしょうか。結局、人の強さは“ルール”の上でしか測れないのです。それが「戦わずして勝つ」のが究極と言われる所以ではないでしょうか。すなわち「シーソーの支点に立つ」ということです。それは「相手と白黒つける」というエゴを捨てることです。「打たれていないほうの頬さえ差し出すこと」です。“この世的”にみたら「敗北」に映ること。それが“神の国”においては勝利なのです。だから、先に余地を残したように“その道を極めた人”には、王国への門が近いのかもしれないのです。「罪の本質は、貪りという支配欲であり、それは自己愛に根ざします」。しかし、世の獣に「敗け」だの「おかしい」だの言われながらも、聖書の御教え、すなわち“神の義なる基準”に生きる者が「勝利」するのです。人に対してではなく“死に至る罪”に対してです。私もメッセージが独善的にならぬよう気をつけます。私は信徒として義に立っているつもりですが、誤差なく真ん中に位置することなど、まだ到底できぬからです。

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