“善悪の樹”について、ご存知の方は多いと思います。聖書において最初にこの言葉が出てくるのは、『創世記』2章9節です。
神は、最初の人であるアダムに、「この樹から取って食べることのないように」と命令をしました。彼の助け手であるエバが蛇に象徴されるサタンに騙され、一緒にこの命に背くことになってしまうわけですね。
実に多く人が『創世記』の記述を文字通りに受け取ることを拒みます。私も同様だっただけに、気持ちは分かります。ただ、「“聖書を文字通りに読む”のが聖書的なキリスト者である」という文言に疑問を挟む余地はないでしょう。
ある人は、「『創世記』の記述は進化論に矛盾する」と言います。この主張に一つ大きな指摘をしますと「“進化論が正しい”ことが前提になっているのは何故ですか?」。
上記の問いは、科学と信仰について考えるきっかけになると私は考えます。「神の不在は科学的に証明されている」と言う人に聞きたいのは、「その証明をあなた自身が組み立てることはできますか?」ということ。さらに言うならば、仮に、数式によって示すことが出来ても、究極的にその正しさを表すことできません。
たとえば、数学と密接に関わる論理学には、認めざるを得ない命題があります。その一つは、
[真理はある]
というものです。
この命題がそのまま正しいと認めれば真ですし、
この命題を否定すると、「“真理はない”という真理がある」ことになり、真となります。
誰もが、偽を突きつけることができません。その道の専門家ではないので、はっきりとは言えませんが、このようなロジックは数式に適用されています。
「ともすれば、やはり数学に基づく物理学、ひいては科学の証明は正確だろう」という声が聞こえてきそうですが、そのようには断言できません。
たとえば、先の[真理はある]という命題は必ず真ですが、「真理が何か?」については黙しています。事実、論理学に基づく哲学を究極的に追求したとも言えるウィトゲンシュタインという人物も、その前期の集大成である著『論理哲学論考』を「語り得ぬものについては、沈黙せねばならない」という言葉で締めくくっています。
「物理学の理論で“エネルギーは保存されて他の力が介在する余地はない”と証明されているんだよ」といくら言っても、「神の力はエネルギーではない」との主張が現れたら、そこには静かな時が流れるのです。
結局のところ、「科学的な根拠がある」というのも、神話を信じることと“本質”は変わらないのです。
ではなぜ、「『創世記』は神話ではない」と私は堂々と言うのでしょう。
それは、「聖書に書かれたことを“体験”しているから」です。
ある女性がネット上で、「エピソードに基づく政治ではなく、エビデンスに基づく政治を支持すべきだ」と主張していて、私は「なるほど」と頷きました。
そこで、信仰と照らし合わせて「エビデンス(実験に基づく証拠)は科学の専売特許ではないな」と私は考えました。
信徒となり、信仰生活によって得ることは、一つの“実(体)験結果”なのだと。
冒頭に挙げた話に戻りますと、「“善悪の知識を得る実”そのものにどのような力があるかは問題ではない」のです。要点は、“「食べてはいけない」という神の命令に、自由意志を用いて反する選択をした”ことにあるからです。
そのことを踏まえると、「“神との契約に違反した”すなわち“神との関係を断絶した”原初の人間から、神から背こうとする負の遺産としての性質を受け継いでいること」を、科学信奉者は“エビデンスとして”提示しているのではないでしょうか。
聖書の記述は正しい。『創世記』の記述は科学によっては否定できないばかりか、逆に証明されている。
このメッセージは、その解き明かしに着地しました。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。