1.序論
a)真理
→真理には“真理そのもの”と“主体的真理”がある。後者は「その人にとっての真理」なわけだが<「真理はない」とすれば、それが真理である>という基本の論理よろしく、前者は必ず存在するわけであるから、この二者が一致するのが理想である。世の無神論は「普遍的なもの」に関心がない人に影響することが多いから、神の一般啓示に気づけないわけだが「普遍的なものは存在しない」というのは思想の出発点であるべきであって、探究を怠る理由にならないでほしいと私は願う。
b)真偽
→被造世界の一つの法則に“二項対立”があろう。これは「物事に肯定と否定があるなら、何かには必ず二つの項がある」ことに発する。ここから“真偽”が生ずるわけだ。しかし、その真偽というのも、いかなる数式によって証明されたところで結局は「受け取り手が信ずるかどうか」に依存する。だからして、すべての人は「何かの真偽を確かめる」時に“各々の基準”から判断しているわけだ。
2.本論
c)基準
→人は自分の基準を何某かの形で構築する。各人の経験や読んできた書物など、それまでの人生が集積する仕方によって。その基準は“信条”(あるいは信念)と言い換えることもできよう。各々に「生き方」があるのは美しいことだが、性質上、それは次第に硬直化する。それはいい方向にはたらくこともあれば、逆もあり得る。“芯”というのは、実直さと頑なさという“二項”を持つものだからだ。その基準が正しければ、硬直化することは、それこそ「芯が据わる」ことであるし、そこからの成長もよい軌道に乗ろう。しかし「変な癖」だった場合は、わるい状態になってしまう。「あの人、変わったわね」という言葉がいい意味で似合う人になるには、どうすべきか。
d)吟味
→自己のわるい硬直化を避けるためには「“自らの基準”に依って世界にある“選択肢”の真偽を確かめる」必要がある。このことはつまり「“自分”として行動する」ことであり「何となく(漫然と)生きない」ことである。そこでもし、自分の据えている基準に当てはまらない新たな“選択肢”に出会ったとしたらば、それを探究してみることが必要だろう。真偽というのは一定の基準から判断するものであり“自分の信ずるもの”が基準である以上は、そのほとんどが“偽”になるわけで「“その人”が真偽を判断するときには、既にほとんど結果は決まっている」からである。そのときに「偽である」と言い難いものに出会ったときは、その対象には新たな基準となる(あるいは、好影響の要因となる)可能性があるわけだ。
e)聖書という軸
→まさに上記のような探究をしてきて、私は「聖書という軸」に出会った。その御言葉は、人間を基準としたものでなかった。そこには“善悪”はじめ「人によって偏る項」に関することでなく“義”という「神による裁量」に基づいた教えがあった。私は“聖書の教えを軸に”生きてから、かの善悪にさえ、その判断に困ったことはない。体験的に「この(聖書の)基準は“義”しい」と判ったわけである。ただ、1000の選択肢について処することができたとき「1001個目が新たな基準となる可能性がない」とは言い切れない。だからして、私自身は「聖書という基準が世のあらゆることに適用できる」ことを確かめつつ実証し「聖書そのものを“選択肢”として提示し続ける」つもりなのである。
3.結論
f)典拠
→たとえば仮に「キリスト教的に異端」であっても、偽典とされるものを典拠に論を展開し、すべての物事に処することができれば、それは選択肢になり得るし、あるいは正統信仰かもしれない。(ただ、理論上それはあり得ないから、早い段階で基準を変える必要があろうけれども、)自己吟味を怠って同調的な“この世”に従属するより、その人は敬虔かもわからない。私が言いたいのは「人は必ず何かの基準に生きるのだから、その基準を尊んで生きるべきではないか」という提起である。これからも世の新たな選択肢を吟味し続け、そのことによって「聖書という基準に生きること」を選択肢として提示しながら生きたいと思う。