無神論者は、「神が全知全能なら、この世界が不完全なのはおかしい」と主張します。しかし、真におかしいのは、人間的な観点に立って神を批判することです。なぜなら、人間は時間的にも空間的にも部分的にしか世界を見ることができないゆえ、世界が不完全だと主張する力がないからです。にも関わらず、我々の多くは超越者に歯向かいます。それこそは、人間の罪です。ゆえに、「この世界がおかしい」と思うのであれば、その不満を神にぶつけるでなく、己が罪に向けるべきです。
神の計画を知るためには、まず、“被造世界は壊れた状態にある”という理解が必要です。残念なのは、多くの場合、被造世界の“のろい”だけが強調され、「なぜ」この世界が壊れたかという説明がないことです。
「世界は壊れていておかしいんだ。この世界に操られないで神を信じよう」というのは、いかにも宗教色が強い。これでは、未信徒が躓くのも当然です。
被造世界が壊れたのは、アダムに始まる堕落ですが、その本質は、「人間が自由意志を与えられた」点にあります。神への不満は、ようするに、「アダムが罪に陥らなければ、うまくいっていたんじゃないのか」という点にあるわけでしょうが、罪の原因は自由意志に隠れています。つまり、実は、神のことを疑うことこそ罪のあらわれであるということ。そしてそれは必ずしも忌むべきものではありません。
もし人間に自由意志がなければ、我々は操り人形のようになってしまうでしょう。人間とはすなわち、“自ら選び取る者”である。その権利を神は人類に与えたのです。つまり、『創世記』においてアダムとエバが神との約束を破ったことは、“必然であった”ということです。神は全知全能であり、すべてを知っています。創造の段階から、既にこの確定的な未来は分かっていた。それゆえ、神が“善悪の樹”を置いたのは、人類を堕落させるためではなく、神に聞き従うか否か選択する権利を明らかにするためであった、と。エデンの中央にすえられた“善悪の樹”の横には“生命の樹”があり、後者はとって食べてもよかったのです。しかし、その“実”にどのような力があるかは問題ではなく、「どちらの樹から取るか」すなわち、「神に聞き従うか否かを選ぶ」という“意思決定の力”が“人間の側にあった”というのが肝要なわけです。
旧約には、アブラハム契約、シナイ契約、ダビデ契約など、多くの約束が出てきます。エバを唆したサタンを神が糾弾するやり取り‐<女の子孫が蛇の頭を砕き、蛇が彼の踵を砕く>という旨の記述‐は、“キリスト(エバの子孫)がサタン(あるいは、罪の象徴)に打たれることによって勝利する”ことを示した約束です。
ここには、アダムとエバに象徴される“自由意志という権利でもある人間の罪”とサタンに象徴される“この世の背信的な支配”、そしてキリストの十字架まで見据えられた“信仰による勝利”が集約されていると思うのです。
「神がいるなら、こんな世界はおかしい」という主張は、「こんなおかしな世界に、神がいるはずない」という命題と同値です。後者をみると、神がいるか否かが、“こんなおかしな世界”という、被造世界への人間の独断から来ていることがよく分かります。しかし本当は、「こんなおかしな世界なのだから、神に頼らなくてはだめだ」という意思決定を促すことが神の意図であり、「神がいるのに、世界がこんなにおかしいのは、我々の側に問題がある」と気づくのが本当の在り方なのです。
こういうことを書くと、「人間の側に問題を突きつけるのが宗教だ」と反発する人もいるでしょう。しかし、誤った教えも含めて“宗教”と一括りにして、問題を指摘されたという点にのみ反発し、顧みることはしない。人間優位の主張は、耳ざわりがいいからこそ危険です。なぜなら、本来的に“人間は誤謬を指摘されるときほど耳を塞ぎたくなるものだから”です。
今回のテーマは、「キリスト教は自由に基づく教えである」ということです。“信仰の自由”という標語は、“自由の信仰”という聖書の在り方に聞こえは似ています。しかし、「何を信じてもいい」との曖昧な風潮が「信じるか否かを決めていい」という、救いの決定権を侵害する可能性があることに、我々は気をつけねばなりません。
いま、どのような選択をすべきでしょうか。
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