A:「人間が存在する空間は、一つであるか」
という問いを考えるに際しては、
B:「人間がどのように定義されるか」
について議論しなくてはならない。
というのも、
C:「我々が他者を認識するとき、疑いなく人間だと認識する」
ことが基本だけれども、
C2:「生物学的な種差が、人間というカテゴリーをつくった」
という前提が基本で、
C2*:「個の内面が別様である点からは、一つとして同種の個体は存しない」
と言えるからである。
つまり、命題Bが意味するところは、
B*:「人間とは、“識別する自我”を持った存在である」
ということである。
命題C群の流れから、命題B*が規定されれば、
B**:「人間は、他者を識別することで、人間たり得る」
ことになるから、
C2**:「同種の個体でないことを是認することが、人間であることを保証する」
のである。
ともすれば、命題Aは、
A2:「識別する自我を持ち得る空間は、一つであるか」
と言い換えることができる。
このことについて、命題B*を踏まえて考えると、
D:「我々は、“名辞”による識別(区別)行為が可能な限り人間である」
から、
A*:「人間が存在可能な空間は、一つであると断定することはできない」
であろう。
ただし、
D2:「名辞を与えるためには、言語が介在されなくてはならない」
からして、
A**:「人間が存在し得る世界には、言語がなくてはならない」
ということは確実である。
ただし、この観点に立ったとき、
E:「(仮説として想定される)多元的な空間に、具体的な名付けはできない」
ことが自明である。
というのも、
E2:「具体的な特徴が共有されなければ、識別は不可能である」
ためで、このことは、命題A**に対して、
F:「我々が言語化(識別)できない世界に、人間は到達し得ない」
ことを表している。
つまり、命題AおよびBで提起したことは、
F2:「人間が存在可能な空間は、言語化によって“直ちに”共有できなければおかしい」
ということを表しているのである。
このことは、
F2*:「人間が言語化できない世界では、人間としての存在が保証されない」
ことを意味する。
かくて、
F*:「“現に”人間である我々は、“人間のまま”到達可能な空間ならば必ず識別できる」
のであり、その意味において、
F**:「人間が名辞を与え、現に共有可能な空間に限り、その存在はあり得る」
のである。
よって、
∴「人間に対しての多元的な空間は、名辞を与えられる限りには存在の可能性がある」