1.序論
a)律法の書
→モーセ五書のうちで律法について特に細かく規定されているのが『レビ記』である。その11章では、どのような生き物は食してよいかということについて、時代に関わらない普遍性を以って記されている。例えば「ひづめが分かれていて、反芻するもの」という規定では“野うさぎ”は前者に引っかかり、“いのしし”は後者に引っかかる。
b)細かさの意味
→細部にわたって律法が規定されているのは、①律法の完全性を示すため,②律法の完全な踏襲が不可能であることを示すため,このどちらかであろう。おそらくは「主イエスのみが律法を完全に踏襲できる全き存在である」ことの布石だと考えられる。
c)律法の成就
→キリストによって律法は成就された。ここで言う“律法”とは「旧約聖書全体」のことである。そのキリストが、神から与えられた戒律は、①父なる神への畏敬,②隣人への愛,に集約される旨を語られた。では、細かな規定の意味はなかったのだろうか。
2.本論
a)戒律は印
→考察するに、たいへん細かな規定は神を敬う民にしか不可能であり「これほどまでの規定を与えていただいた」というのがイスラエルにとって選民の証であったのだろう。事実、異教の民に示されたとしたら、その踏襲どころか付与さえも拒んだだろう。しかし、このような事情があったからこそ、ユダヤ人は「律法主義(わざによる救い)」に陥ってしまったのである。
b)不可避の罪
→律法を踏襲しようとすれば、それが「自分の力によるものだ」という錯覚が生じる。それは“高慢の罪”であり、律法主義の行き着く錯誤である。しかし「律法の踏襲が不可能だ」と、自分の努力を放棄すれば、無律法主義に陥り“貪りの罪”が野放しになる。つまり、律法そのものが聖であることは間違いないが、「踏襲しようとすれば高慢になり、踏襲を放棄すれば放埒になる」という“罪の不可避性”を示すものなのである。
c)どうすればよいのか
→律法の下にある者は、その全体を守らなければ罪に定められる。よって、自分の匙加減で「律法の“中庸”」を行こうとするのは罪である。ならば「律法の外に出る」他ない。しかしそれは、未信徒だった過去と同じ行動原理で生きることではないのか。
d)御霊の律法
→民として生きる時にルールがないことはあり得ない。未信徒のときと同じ行動原理で生きていたら、律法の外にあるのと同時に、救いにおいても現段階で外に留まることになるだろう。聖書は何と言っているか。「信徒は新しい“御霊の律法”の下にある」ということである。そしてそれは「~してはいけない」というものではない。なぜなら、新しい律法が旧い律法と同じ原理で動いていたら、高慢と貪りの罪は居座るからである。御霊の律法とは「~したくない」と感ずる葛藤なのである。
3.結論
a)恵みとは
→キリストの贖いを信じたとき、誰もが「律法による義の追求」という誤った原則から解放され「聖霊の内住」を得る。これが義認の賜物である。信徒の地上生涯は「聖霊による恵みに生きること」である。信徒は「聖霊の宮に相応しい生き方ができるようになるのか」とキリストの贖いの後も、古いパン種(習慣)と格闘する。未だ迫ってくる罪の名残りに負け「恵みによって変えていただくとはどういうことだろう…こんな自分に恵みはあるのだろうか…」と挫けそうになる。しかし、それこそは恵みそのものである。律法から解放され、かつ、未信徒ではない。罪と葛藤しながら対峙している状態こそは恵みの働きによるのである。それは、回心するまでなかったものなのだから。
b)目から入る汚れ
→新約にあって“生ける御霊の律法”に従う我々は「すべてのものは、それ自体は清いものである」という前提のうえで“そのゆえに貪ろうとする罪”、“それを避けたときの高慢の罪”に気をつけなくてはならない。主イエスは「異性を情欲の目で見たら姦淫と同じである」との旨を語れられた。これはいっそう厳しい戒律であるが、キリストはご自身の贖いの先に、聖霊の恵みがそれを成すように導くことを知っておられたうえで語られたのだ。