2.聖句の悦び

律法と恵み。(参考→ロマ4:15‐16)

「キリスト教は、戒律の遵守を迫る教えである」という考え方は間違っています。

このことは信徒にとっても躓きの原因となり、事実、多くの人に誤解されていることです。

福音の三要素(キリストは私たちの罪のために死なれ、墓に葬られ、三日目に甦られた)ことを信じた人は、モーセの十戒をはじめとした律法のもとにはいません。

十戒をはじめとした律法は、生きている人に適用されるものです。

よって、福音を信じた信徒には適用されないのです。

「どういうこと?」。

イエスが十字架にかけられたことの意味を知らない日本人が非常に多いです。

「知ってるよ。人類の罪を贖うためでしょ?」

その通り。

でも、それが旧約聖書において幾度となく“予表”されていた、精密な神のご計画であったことはご存知ですか。

その一つとして、

贖罪の意味を端的にあらわす慣習が、旧約時代にあります。

『レビ記』16章10節の、“アザゼル”です。

簡単に説明しますと、「雄山羊に民の罪を転嫁して、野に放つ」という儀式です。

そう、イエスが十字架で死なれたことは、

「私たちの転嫁された罪をキリストが背負い、死を以って消し去った」

ということなのです。

人間の罪は、人間が贖わなければいけないが、ただの人間にはできない。

だからこそ、

「イエスは全き人間であり、子なる神である」

わけです。

1,2 イエスが私たちの罪のために死して、墓に葬られ (贖罪と人性)

3 三日目に甦られた (イエスの神性と神の権能)

を信じることには、それらの意味が凝縮されているのです。

さて、キリストには、私たちの罪が転嫁されました。

イエスは、“最後のアダム”と呼ばれていますが、

人類が罪を負っていることの代表がアダムであれば、

人類の罪が贖われた象徴と道がキリストです。

つまり、

「イエスを信じたとき、私たちの罪はキリストとともに死んだ」

ということであり、

キリストに起きたことは信徒にも起こった

ことになり、

「信徒は、肉において死んだ」

のです。

律法は、人間の“肉”(人間的性質)を統御するものです。

よって、既に死んだ者には適用されません。

しかし、律法は必要なものであることを聖書は言っています。

そこで、「どのように律法を全うするのか」ということが問題になるわけです。

「キリストを信じた人は、神から価なしに義と認められます」。

新約聖書はギリシャ語で書かれていますが、

この部分は、

“一度限りの完了”を表す日本語にはない時制

で書かれています。

「一度救われたら、救いを失うことはない」

という教理を否定する人がいますが、

聖書を原語で字義通り読めば、そのような立場はとれないはずです。

「神から義と認められ、その救いを失うことはない」

というのは、

「キリストの贖いが一度限りの完璧なものである」

ことを認めることでもあります。

そして、福音を信じたとき、

キリストに起こったことが我々にも起こり、

罪に対して死した。

そのため、

律法はもう適用されないゆえに、罪人ではなくなる(義とされる)

という緻密な理論です。

さて、

「肉において(罪に対して)死んだ」

とはいえ、古い性質(かつての習慣)は“形だけ”残っています。

限界はありますが例話で説明しますと、

[ある喫煙者が、厳しい職場のストレスから逃れるためにタバコを吸っていた。

しかし、身体のためにも喫煙とストレスから離れたかったため、

仕事を辞めた。

転職先は、とても素敵な職場で、タバコはもはや必要なくなった。

ただ、喫煙の習慣だけが残っているので、

いまだに時々、タバコのパッケージが見たくなるし、吸ってしまう。

とはいえ、吸う必然性はもはやないし、

喫煙者とは呼ばれない]

つまり、信徒は罪を犯す可能性はあるが、その必然性は無いのです。

律法は守られるべきですが、

「タバコを吸うな」

と言われるとかえって吸いたくなるように、

古い性質(罪)を思い出させてしまう。

でも、やはり律法は全うされるべきものです。

では、どうしたらいいのでしょうか。

そのことを、

人間的な努力でなく、神の恵みによって進める

(その過程を神学用語で“聖化”といいます)

というのが、キリスト教の真なる教えです。

ここで登場するのが、

信徒に与えられた、

第三位格の聖霊なる神

です。

先の例でみるならば、

禁煙外来の医師が、内側から診療してくれるようなイメージ

が分かりやすいかと。

人間が“わざ”(自らの努力)によって

聖化の過程を進めようとしても出来ず、無力感に苛まれてしまいます。

しかし、“信仰と恵み”(すなわち、神の導き)によって

信仰生活を進めれば、

少しずつ変えていただくことができるでしょう。

キリスト教は、

頑張ることを強要する宗教

ではありません。

むしろ、

頑張るのをやめ、神によりすがる教え

なのです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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