1.序論
a)世とは
→聖書の教えに基づけば、(被造)世界と世は異なる。前者が“神によって創られた被造物としての空間”を指すのに対して後者は“人間がイメージする空間を含めた世界観”を指す。より本質的な表現で分かりやすく言えば「世界が唯一なる神の被造物であると理解していない世界観」が“世”である。
b)混沌とした世
→そのような本質を持っている以上、当然、世は神を否定する。神を否定する世界観が世である以上それは当然であり、罪(神からの離反)と同質であると言える。であるから聖書が「世と歩調を合わせてはいけない」と指示するとき、それは「厭世的になれ」と言っているのではなく、いわば「“厭神的”になるな」と勧告しているのである。
c)御国
→信徒は神を認めるのだから、その意味において世にはいない。世が神を否定する世界観に生きることであれば「御国(≒天の国)に在る」とは神を肯定する世界軸に存在することである。
2.本論
d)空間と時間
→先の論述おいて御国と天の国をニアリーイコールで結んだのは、正確にはこの二つは異なるものだからである。福音書において主イエスが仰せられたことや『ヨハネの黙示録』に基づけば、おそらく、御国に至る(回心して愛の信仰を持つ)べき人が、父なる神の御旨に達した時に新天新地が成る。つまり、天の国は空間概念として世界と分離したものというより、未来において達成される時間概念と捉えることができる。一見、異彩を放つものだが、辻褄が合う考えだと思っている。
e)葛藤
→難しいのは、被造空間としての世界には、世に生きる人と御国に在る信徒が混在していることである。既に「世に対して死んだ」ところから新生した信徒には、違う“軸”に生きている人からは原理的に影響されるはずないのだが、むしろ、その事実ゆえのすれ違いが痛みとなるのである。
f)地上生涯
→救われたからこそ痛みがある、というのは矛盾のようであるが、この“痛み”は未信徒に対して「あなたがたは救われ難い…」と偽善的に偉ぶるような憐憫の情ではない。それは高慢であって、愛に生きる信徒にはあり得ない。そうではなくて、“私たちの神”が尊ばれないことへの悲しみである。それは、富・名声・権力という“この世の神”であるサタンが、信仰・希望・愛にして真・善・美であられる唯一の父なる神に対して「既に決定的に敗北しているのに、あたかも勝者のように振る舞っていること」への“義の怒り”なのである。
3.結論
g)対峙する相手
→聖書は隣人に対する憤りを禁じている。「復讐は私がする」と神が仰っているからである。しかし、サタンに対する怒りはどうか。この点についての言及はないが、“憤り”の性質が問題になっているとはいえ、悪魔に対して無言を貫いていたら伝道の教えに反するだろう。ただ、かつて御使いの長であったサタンは非常に狡猾であるから「信徒としてなっていない」という敬虔さを逆手に絶望させて命をつけ狙ったり、「信徒としてなっている」との自負から高慢に陥らせて惑わせたりする。だから、常に“神の武具”で身を固める必要がある。
h)神の武具
→信徒は、外からも内からも神のご加護のもとにある。それを忘れないことである。どうやって糧を得るか分からなくても、世に“生きて”いないのだから、御国に在る“いのち”のことだけを考えればよい。それは神を求める信仰にあり、貫く以上は必ず然るべきところに導かれるはずである。信仰は希望であり、不変の愛に基づいているのだから。
i)結び
→この世の有り様は悲惨である。しかし、闇がなかったら光は見えない。未信徒しか新たな信徒にはなれない。被造物があることが創造主の栄光を現す。相応しい人には一刻も早く脱してほしい。世は罪、御国は愛である。どちらを選ぶべきだろうか。