キリスト教には、“三位一体”の教理があります。
それは、
「天地を創られた父なる神
キリストである子なる神イエス
信徒の内に住まう聖霊なる神
が
唯一の神として三つの位格において存在する」
というものです。
この教理には、もはや理性に基づく論理では対応できません。
祈りによって神と対話することでもたらされる理解を最優先に、
いわば“信仰的探究”をしてきた私にとっては、難問であり、
テルトゥリアヌスの、
「不合理ゆえに我信ず」
という立場は、
“誤魔化し”
だと非難していました。
パウロ書簡(新約聖書の大部分を占める、使徒パウロによる組織神学的な手紙)を、
「パウロの個人的な考えだ」
として、
「新約は福音書だけが正しい」
なんていう、とんでもない信仰を“していた”私ですから、
その非難は
全く的外れ。
そこで、
三位一体がどうして正しいのか
ということをお話しするにあたり、
まず、私の誤解を書いておきます。
それは、“聖霊論”においてです。
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私は、
「父なる神だけが唯一の神である」
とし、
「聖霊は神の力である」
そのゆえ、
「イエスは聖霊によって身籠られ生まれたから神性を持つのだ」
という理解をしていました。
なるほど、
確かにこの理屈だと、
イエスは、
神の力である聖霊を100%持っていたということから、
神性と人性の両方を持つことになりますし、
神が唯一であるという理解もしやすいです。
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しかし、このことは間違いでした。
なぜ間違いだと言えるのか。
それは、
「祈りによって導かれたから」です。
聖書には、
「神は唯一であり“三位一体”である」
という“文言そのもの”は出てきません。
しかし、
その概念を明らかにする聖句がいくつもあります。
そもそも、
パウロ書簡に反発していた私ですが、
「完璧とは、一点の欠如もないことである」
という大前提を忘れていました。
その前提に立つと(自由主義神学や異端、カルトのように)、
「聖書の一部分が正しい」
などということはあり得ないのです。
“救い”は神の完全性に基づくのであり、
そのことが書かれた聖書は完璧であるゆえ、
“聖典の一部を否定することは、その全てを否定することになる”
という論理です。
先に、「“三位一体”は論理では対応できない」と言いましたが、
“その議論以前に上記の論理展開があること”が重要です。
さて、
聖霊論についての私の間違いは、
「聖霊が神の力だとすると、“聖霊の内住”が説明できなくなる」
ということから明らかになります。
どういうことかというと、
聖書の原理に基づけば、
“福音の三要素”を信じた時、
私はキリスト者になり、
聖霊によるバプテスマ(洗礼)を受けました。
それすなわち、聖霊の内住です。
このとき、
“聖霊が内住した”という“事実”
はありましたが、
そのことを分かっていませんでした。
しかし、
日々の祈りによって、
「自分が内側から変わること」
を覚えるとともに、
神へとの対話によって
「聖書は全き神の言葉であり、字義通りにそのまま信じる」
ことに導かれたのです。
つまり、
A)キリストの福音を信じる
↓
A’)聖霊が内住する
↓
B)神に祈って対話する信仰生活を送る
↓
B’)内住の聖霊に導かれる
↓
C)聖書が完璧であると信じる
↓
C’)聖霊が唯一なる神の第三位格であると信じる
という流れがあったわけですが、
AがなければA’はなく、BがなければB’もなく、CがなければC’はあり得ない。
そして、
A’がなければ、B’はあり得ず、C’は導出されないはずなのです。
もし、
「聖霊が“外からはたらく”神の力である」ことが正しければ、
「聖霊が“神として”内住している」との信仰に至るはずはない
ということです。
まとめると、
信仰生活を送らなければ、三位一体を体感することはできず、
“三位一体を信じることが聖霊の導きよってなされる”以上、
「“三位一体”を信じること自体が、そのことの真性を証している」
わけです。
総括すると、
「不合理ゆえに我信ず」
は、
「信じたがゆえに我解す」
との体験に繋がっていく
ということです。
とはいえ、
神を信じることができていない人に、いきなりは難しいでしょうから、
「神よ、あなたがいるなら、それをお示しください」
という祈りを始めてみて下さい。
それが全てのスタートです。
キリスト教が真理である証拠は、体験の内にあります。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。