2.聖句の悦び

御霊による聖化。(参考→Ⅱコリ3:14‐18)

キリスト教には、“三位一体”の教理があります。

それは、

「天地を創られた父なる神

キリストである子なる神イエス

信徒の内に住まう聖霊なる神

唯一の神として三つの位格において存在する」

というものです。

この教理には、もはや理性に基づく論理では対応できません。

祈りによって神と対話することでもたらされる理解を最優先に、

いわば“信仰的探究”をしてきた私にとっては、難問であり、

テルトゥリアヌスの、

「不合理ゆえに我信ず」

という立場は、

“誤魔化し”

だと非難していました。

パウロ書簡(新約聖書の大部分を占める、使徒パウロによる組織神学的な手紙)を、

「パウロの個人的な考えだ」

として、

「新約は福音書だけが正しい」

なんていう、とんでもない信仰を“していた”私ですから、

その非難は

全く的外れ。

そこで、

三位一体がどうして正しいのか

ということをお話しするにあたり、

まず、私の誤解を書いておきます。

それは、“聖霊論”においてです。

ーーーーー

私は、

「父なる神だけが唯一の神である」

とし、

「聖霊は神の力である」

そのゆえ、

「イエスは聖霊によって身籠られ生まれたから神性を持つのだ」

という理解をしていました。

なるほど、

確かにこの理屈だと、

イエスは、

神の力である聖霊を100%持っていたということから、

神性と人性の両方を持つことになりますし、

神が唯一であるという理解もしやすいです。

ーーーーー

しかし、このことは間違いでした。

なぜ間違いだと言えるのか。

それは、

「祈りによって導かれたから」です。

聖書には、

「神は唯一であり“三位一体”である」

という“文言そのもの”は出てきません。

しかし、

その概念を明らかにする聖句がいくつもあります。

そもそも、

パウロ書簡に反発していた私ですが、

「完璧とは、一点の欠如もないことである」

という大前提を忘れていました。

その前提に立つと(自由主義神学や異端、カルトのように)、

「聖書の一部分が正しい」

などということはあり得ないのです。

“救い”は神の完全性に基づくのであり、

そのことが書かれた聖書は完璧であるゆえ、

“聖典の一部を否定することは、その全てを否定することになる”

という論理です。

先に、「“三位一体”は論理では対応できない」と言いましたが、

“その議論以前に上記の論理展開があること”が重要です。

さて、

聖霊論についての私の間違いは、

「聖霊が神の力だとすると、“聖霊の内住”が説明できなくなる」

ということから明らかになります。

どういうことかというと、

聖書の原理に基づけば、

“福音の三要素”を信じた時、

私はキリスト者になり、

聖霊によるバプテスマ(洗礼)を受けました。

それすなわち、聖霊の内住です。

このとき、

“聖霊が内住した”という“事実”

はありましたが、

そのことを分かっていませんでした。

しかし、

日々の祈りによって、

「自分が内側から変わること」

を覚えるとともに、

神へとの対話によって

「聖書は全き神の言葉であり、字義通りにそのまま信じる」

ことに導かれたのです。

つまり、

A)キリストの福音を信じる

A’)聖霊が内住する

B)神に祈って対話する信仰生活を送る

B’)内住の聖霊に導かれる

C)聖書が完璧であると信じる

C’)聖霊が唯一なる神の第三位格であると信じる

という流れがあったわけですが、

AがなければA’はなく、BがなければB’もなく、CがなければC’はあり得ない。

そして、

A’がなければ、B’はあり得ず、C’は導出されないはずなのです。

もし、

「聖霊が“外からはたらく”神の力である」ことが正しければ、

「聖霊が“神として”内住している」との信仰に至るはずはない

ということです。

まとめると、

信仰生活を送らなければ、三位一体を体感することはできず、

“三位一体を信じることが聖霊の導きよってなされる”以上、

「“三位一体”を信じること自体が、そのことの真性を証している」

わけです。

総括すると、

「不合理ゆえに我信ず」

は、

「信じたがゆえに我解す」

との体験に繋がっていく

ということです。

とはいえ、

神を信じることができていない人に、いきなりは難しいでしょうから、

「神よ、あなたがいるなら、それをお示しください」

という祈りを始めてみて下さい。

それが全てのスタートです。

キリスト教が真理である証拠は、体験の内にあります。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

-2.聖句の悦び
-