α:回心して間もない頃は特に「聖書の御教えを形而下にする」ことに躍起になっていました。今も少し残っているこのあり方は「信仰箇条を限りなく知によって捉える」ことに繋がっています。結果、「神の国において“三位一体”をどう説明するか」という“盲信の危うさ”に気づく柔軟性を獲得した面があります。私の、言わば“聖書的な哲学”たる基本姿勢は、信仰と知のバランスにおいて成り立っています。しかし、柔軟も行き過ぎると肉離れします。聖書の真髄は“信仰”であり、それを支える“知”が優位になってしまったら本末転倒です。諸刃の剣によって自分に迫る“思想的な惑い”には気をつけねばなりません。
§:人間的な哲学の誘惑は“認識論”に始まり「知覚した物事を考える」ことにあります。それは「知覚は正しいのか」あるいは「知覚とは何か」という細部へわたります。その探究が無意味とは思えません。しかし「“認識論”を土台に展開される哲学」は、どうあっても“人間的”になってしまうでしょう。あるいは、宗教思想と認識論が合わさると“輪廻”の概念がやってきます。では「その時間軸の動力はなんでしょうか」。もし、その人に“仏性”があって救われる可能性が備わっていたら、セカンドチャンスは必要ないはずです。そのことは、聖書が輪廻を否定していることに明らかです。ただ、「機が間に合わない」ことはあり得ますから、召された者として伝道を怠るわけにはいきません。
§:インド思想には“アートマン”と“ブラフマン”という概念があります。専門ではないので細かいことは話しませんが「“認識するもの”は不滅である」という思想は未信徒時代の私には魅力的でした。「自我が消滅するときに“消滅した”と認識する自我はない。よって自我は消滅しない」という論理です。しかし、私はよくよく考えて、全身麻酔を数回経験したときのことを思い出しました。「麻酔薬落ちますよ~。気づいたら終わっているからね」という医師の声と執刀医の静かな笑顔、“完全な無”を挟み「太腿、元通りになったからね」と意識が戻ったあとの温かい空気…。私の自我は「なかった」。正確には「ワープした」のです。それは“アートマンの否定”というより「“絶対的権威者”による自我の維持」を私に思わせたのでした。
§:確かに“復活体”というのはイメージがしづらいです。「天寿を全うした人は、最盛期だった時の姿になるのだろうか」という想像や、「幼くして天に旅立った人は、いつの姿に復活するのか」という疑問。しかし、それさえも知によって捉えようとすること、禁忌に近いその邪推こそは「復活体を得られなくなる」悲劇に繋がりかねません。なぜなら「復活体というのは“信仰的人格”だから」です。復活体は“信仰によって”神から恵まれるものです。したがって「復活体とは何だろう」と“期待”するのは素晴らしい希望ですが、“詮索”するのは「プレゼントの隠し場所をあさって、包装を破いてしまう」ように愚かなことです。それは、恵みを与えるお方の想いを無下にすることであり、己が“救い”を失うことです。“神の愛”を待ち望む「希望」こそが“信仰の根”だからです。「復活体を待ち望む生ける信仰」そのものが“朽ちることのない若さ”を持っているのです。“体”よりも“からだ”です。容れ物のことより、中身のことを考えようではありませんか。
Ω:“復活信仰”とは、実のところ“創造信仰”です。神の御力ですべてが創られた。全知全能の神は「創りなおす」ことがお出来になる。『創世記』と『ヨハネの黙示録』が聖書の冒頭と末尾に置かれているのは、神が「よし」とされたからに他なりません。神の創造と、復活という“再創造”を信じることができるか。「完璧な物理法則を明かすことで神を讃美する」という大義を忘れた“近代科学の発見という新興宗教”が常にある現在、ますます信仰の壁は高くなっています。しかし、忘れてはなりません。聖書は完結しています。完結しながらも、それを読む信徒は成長し続けます。この意味は、聖書の完結性が真理であるゆえでなく何でしょう。聖書はいわば、神が人という苗に注がれる水です。科学は「水」が何かを突き止めようとします。私は言います。聖書全巻を受け入れること。それは「紙とは何か」を考えることでなく「神とは誰か」を信じることです。目に見えないものは、朽ちようがありません。聖句によって生ける信仰は“復活体”の「中身にして先取り」なのです。神は創造主なるお方です。