2.聖句の悦び

心を引き裂く。(参考→ヨエ2:13)

十二小預言書として、『ホセア書』の次『アモス書』の前に置かれている『ヨエル書』。

四章からなる短い書ですが、ヨエルの優れた詩才と、何よりも神の御手によって、厳しくも美しく、裁きと希望を記しています。

中でも個人的に非常に印象的なのが、今回の聖句箇所。

それは、<衣ではなく、心を引き裂け> というメッセージです。

私が最初に“注解つき聖書”を通読したとき、災厄が降りかかった理由を預言者に告げられた王などが“衣を引き裂く”という行動をする記述をみて「どういう意味があるのだろう」と思ったものでしたが、読み進めていると、「着物を引き裂くというのは一般的な嘆きの表現である」との説明がありました。

嘆きに際して、単に叫ぶのではなく、着ている衣服を引き裂いてしまうところの深部に、“行為”によって(霊的)表現をするイスラエルの特徴が表れていると感じます。

それを踏まえて、当該箇所を見ると、

衣を割くのではなく という指示は「嘆きの定式をとるのでは意味がない」と諌め、

「心をこそ引き裂け」と、「本当の気持ちで嘆くべき」姿勢を教えているのがわかります。

「形でなく心が改まることが必要だ」との旨がヨエルを通して語られているということは、イスラエルの背信に愛を以って処してきた神が、心からの立ち返りを求めたゆえでしょう。

個人的に考えたところは、”衣を引き裂く”という所作がイスラエルにおいて形骸化していたというより、聖書の性質ゆえ嘆く場面が必然的に霊的場面というだけで、当時において“嘆き”と“罪の悔い改め”が直接的に結びついていなかったのかもしれないということです。

いずれにせよ、

嘆きが霊的な失敗にあり、

衣を割くことがその表明である

としても、

本当に悔い改めなければ意味がない

というメッセージであることは確かかと。

衣は引き裂いても“替え”がありますから、心を引き裂いて“変え”なければいけない。

“律法”すなわち、“神のご意志”の通りに生きること

を最初から完全に踏襲できたら、律法がなくとも生きることができるでしょう。

その意味で、

「律法(人間の“わざ”についての規定)は、恵み(神の“導きの力”)を乞うためにある」

この神学は、

新約の ロマ書(『ローマ人への手紙』) でのテーマであると同時に、

「頑張ろう」と“無理をしがち”なキリスト者への慰めでもあります。

そのうえで、

私などは、

日々の肉的(生き方がこの世的)な妥協、つまり霊的(生き方が聖書的)に弱いことを悔い、

神に告白しては弁明を繰り返してばかり。

「こんなことじゃダメだ」という嘆きと、

「神様にまた不貞を犯してしまった」という悔い。

「心を改める」と決意しても、“裂く”ことを躊躇う。

でも、

もしそれが簡単にできたら、キリスト者としての歩みは淡白になるかもしれません。

痛みを伴いますが、

それは、

「頑張りたいけど、無理なことはできない」

という“葛藤の痛み”なのです。

キリスト教の本来的な教えは、無理を強いるものではありません。

“自分の弱さを徹底的に認め、神の前にへりくだる”。

「神様、このような者ですが助けてください」と。

“神”の名は、本当に“慕い願う者のみ”が発することができます。

自分の罪を認め、神の完全性を改めて思い知る時、古い心には新しい心へ変わるための“ひび”が入るのです。

2章13節は、

「神は、(裁きを)思い直してくださる」

とのメッセージが続きます。

人は自分を頼みとする限り、どこまでも弱いです。

しかし、人には弱さを認める強さがあります。

絶対的な神により縋ることが、どんなに人を強くするか。

このことは、

信じなければ決して分からない。しかし、信じれば必ず分かることなのです。

今日はここまでです。ありがとうございました。

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