「救いは、信仰と恵みによる」。これが聖書の教理です。現在進行形の救いである“聖化”は、ロマ書(『ローマ人への手紙』)の7章に提示される躓きの原因に学び、8章に倣う必要があります。私は、そのことに際し、「頑張らない」のが大切だと思っていました。しかし、この姿勢を極端に取ることは正確ではありませんでした。
どうしてかというと、私の場合、「頑張らない」ようにすると、その励ましを“放縦”の口実にしてしまうからです。確かに、聖化も恵みによりますが、『ヤコブの手紙』を読んでその考えに変化がありました。
私の目に留まった箇所には、<行いが伴わない信仰は死している>という旨のことが書かれていました。“わざ”による救いは間違いだと思っていた私にとり、福音派の信仰者になってから当該の聖句に触れたことは、教理を再考するきっかけとなりました。
救いが信仰と恵みにより、信仰には行いが伴うべきであれば、救いは行いによるということでしょうか。
立式すると、
1)救い=信仰+恵み,2)信仰=行い (X=a+b,a=c)
より
3)救い=行い+恵み (X=c+b)
ですが、
“わざ”と“恵み”は相容れない(一緒に演算できない)はずでは。
4)救い≠わざ+恵み (X≠d+b)
ともすれば、
“わざ”と“行い”が異なることしかあり得ません。
5)行い≠わざ (c≠d)
では、“わざ”と“行い”はどう異なるのでしょうか。
6)信仰≠わざ (c≠d,a=c,a≠d)
がその手がかりです。
まず、先にみたように、大前提として行いは信仰の一部です。信仰が行いによって明らかになる(表される)ということです。それに対して、わざは、信仰の対概念ですから、やはり“わざ”と“行い”は違うということです。
わざが信仰の対概念である理由は、信仰が神へ向かうものであるのに対して、わざは自分を起点とするゆえです。つまり、わざの本質は「自分を義とする」という点にあるのです。このことは、「自らを義の器とする」ことと字面は似ていますが全くの逆です。後者は「神から義とされる」ことに努めるという“信仰”だからです。
導出の過程で自然と答えが出ました。
信仰は、神から義とされることに努めること。ただ、信徒はキリストの福音を信じることで既に義と認められていますから、その恵みを受けた事実を表現するように行いをただすということです。
つまり、「信徒には頑張る必要がない」というより、「信徒の頑張りは趣が異なる」のだ、と。どういうことかといえば、信徒は努力でなく恵みによって導かれる。だから、恵みを与えられるに相応しくあろう、という姿勢こそが大切なのではないか。つまり、信徒の“頑張り”というのは、いわば、恵みを与えられた後に起こる「頑張らずに済んだことの表明としての頑張り」なのです。
先日、情欲にあてられそうになったとき、「頑張らない」ことを言い訳に放縦になりかけたところを“忍耐(行いの一つ)”することで乗り切ることができました。初めてといってよい霊的な成功体験でした。「ん?頑張ってない?」…私もその時は思いました。「忍耐だ…」と10分くらい格闘しました。でも、これもれっきとした“事後的な頑張り”なのです。なぜなら、忍耐にも恵みが先立つからです。未信徒の時には「忍耐しよう」と思わなかったということが、忍耐そのものも信仰に対する“御霊の賜物(恵みの産物)”である証です。やはり救いの過程である聖化も信仰と恵みによることが言えます。
ですから、「忍耐しよう」と思うこと自体が信仰に対する恵みに発しており、その感謝の表明としての行いなのです。つまり、忍耐は頑張りではない。そうではなくて、忍耐さえも頑張らずにできる(ようになるであろう)行いの一つなのです。このこともまた、私自身、信仰生活の中で確かめていきたいと思います。
行いを伴う信仰を成長させ(“ていただき”)たいと思います。
最後までありがとうございました。