§α:中学生の頃、無二の学友と「自分の芯を持ちたいものだね」という話をした。その友人は、齢14にして根強い無神論者だった。思想というのは、人の数だけ色あるものだ。誰しも何かしらの哲学に基づいて生きている。そういった考え方は、自分の育った環境や受けた教育に強く影響される。したがって、人間が意思をもった存在である以上は「その人が、その人たるところは、思想である」と言っても過言ではない。
§A:思想というものは、行動理念と等しい。それは、行動の動機であり、そして経験によって磨かれる(アップグレードされる)“べき”ものである。その中心にあるのは“信念”であろう。「これを譲ったら、俺は俺じゃない」という激情にも似たものである。私は、自分が人を殺める可能性に僅か慄くことが、たまにある。しかし、もし万が一にも意図してそれを為したなら、その瞬間に“私”という思想的存在は死ぬのである。
§B:行動によって思想は吟味され、発展されるべきである。しかし「普遍はない」という思想はじめ“流動的かつ到達点のない思想”は危険である。先に述べたように、思想は動機に直結する。それが“形なきもの”だとしたら、動物的本能に生きるに等しい。人として生きるのであれば“到達するための流動性”はあれど“場当たり的考え方”はなるべく避けたい。そして、到達点を目指さなければ、すなわち「普遍に迫る姿勢」がなければ、地上生涯は空しいものになろう。これは「なんとなく生きる」のが悪いと言っているのではなく「“なんとなく”終わることでよいだろうか」という問いかけである。
§C:では「ひたすらに発展していけばいいのか」というと、それは違うだろう。地上生涯というのは、成長能力に特化した植物になぞらえるとわかりやすい。誰かに影響されて進んでいくのはよいけれども、根っこあっての成長である。かといって、届くことだけを考えて天ばかり仰いでいたら、何のための生育だろう。迎合的な柔軟性はよくないが、頑なに硬直化するのも毒である。だからして、人が思想的に発展していくためには、アサガオ然り“支え棒”があるべきである。そしてそれは各人の持つ(べき)“聖典”である。伝統あるものがよい。先人の知恵が残っているものがよい。美しい文体のものがよい。説き手に権威のあるものがよい。私には一つしか思い当たらない。
§Ω:植物は、実をつけたらゴールなのか。枯れて種子を落とすまでか。違う。生き育っている“今”が常に終着点なのである。しかし「育とう」と思わなければ“今”はやってこない。日の光を喜びながらも、雨に降られてこそ育つ。見えない地面に根を張っていって、艶やかな色を帯びる。“負”の要素に思えること(すなわち“陰”)によって育ち、見えない中身をなお伸ばしてゆくのだ。しかし、人間は“存在している”のであり観葉してそれと定義される植物ではない。人は他者の目につかずとも“自分”を見知る。しかし、“誰か”が観測しているから、独り机に向かう部屋で私は存在する。幸いにも私が蕾のまま散るのを見届けてくれる人はいるだろう。しかし、私が咲くまでを見届けるのは“誰か”たる神であり、その時にあってはもはや散ることがないのである。