A:「言葉は“すべて”信ずるに値しない」
という命題は、必ず偽である。
なぜなら、命題Aを否定しても、
A2:「“言葉は信ずることができない”との主張(言葉)は、信ずることになる」
ゆえである。
さて、
B:「神は言葉(ロゴス)である」
(B※:おそらく、その性質において)
と言われている。
命題Aは必ず偽であるから、命題Bが正しければ、
B*:「神(の性質)は“すべて”信ずるに値しない」
との主張は偽で、
神の少なくとも一形態については、確実に認められることとなる。
それは、
B2:「“神は言葉である”ゆえに、この言葉が存在する以上、神は存在する」
ことに明らかである。
では、
命題Bは真であるか。命題Bに対して、
B3:「神は言葉ではない」
と主張するとき、この言葉が確実に正しければ、
C:「神は絶対的な正しさである」
から、
B3*:「“神は言葉ではない”という言葉が絶対ならば、やはり神は言葉である」
ということになる。
よって、命題B3は、偽になる。
もし、命題B3が言えるとしたら、その主張は反証の可能性を持つか、
あるいは、
B4:「神は言葉でない別の性質を持つ」
という主張になるであろう。
一連の導出より、神の存在は自明である。
さて、
D:「言語は思考に先立つ」
なぜなら、
D2:「何かしらの言語を介すことなしに思考することは不可能である」
(D2※:幼子が思考するとしたら、それは“普遍言語”である可能性が高い)
からだ。
よって、命題Dが真であれば、
E:「神という概念は、人間が作り出したものだ」
という主張は偽であり、
E2:「人間は、神によって創られた」
という主張が正しい。
そのわけは、
F:「人間は、思考する存在として成立する」
からである。
というのも、
かの哲学者の言うように、
G:「あらゆるものが不確実な中で、思考する自分は疑い得ない」
そして、
ここに欠落している非常に重要なことを付言すると、
G*:「思考する自分より明らかなものは、思考に用いる言語である」
この点に異論の余地はないと思われ、
命題Fが支持されるわけは、
F*:「人間は、自身を言語によって解することに独自性(存在意義)がある」
からである。
よって、命題E2は、命題F*より、
F**:「人間の独自性を創造(意味を付随)するのは思考であり、その大元は言語である」
ことから、命題Bと考え併せると、
E2*:「人間(の独自性)は、神(言葉)によって創られた」
と言えるのである。
以上のことから、
∴「神は思考の産物などではなく、疑う余地のない創造者である」