4.終始と三項

恵みの誤用。(参考→ユダ1:3-4)

α:義認とは「神から“義”と認められる」ことです。それは「人間基準」の“善悪”でなく[神]の“義しさ”に向かう確証を与えられたということです。義認は「“福音の三要素”を信じること」で与えられます。その本質は「聖書全体を神の御言葉として信ずる」ことによって「その愛の御教え(すなわち聖書)に生きる」という“契約”にあります。信徒は「罪に定められることはない」のですが、そのわけは“回心”を境に「愛という軸」に生き方がシフトしたからです。つまり、信徒は罪をそれと知り悔い改める意思があるから、義(に向かっていく)として、赦されるのです。だから「キリストの贖いで罪に定められない」恵みを“放縦”の口実に変える者は、福音を“本当の意味”で(先の“本質”として)は受け入れていないのです。

§:聖書を義しく読めば、“無律法主義”はあり得ません。旧(契)約における律法が、新(契)約の下にある信徒には適用されないことの鍵は「御霊の律法」にあります。福音を信じた者には[聖霊](たる第三位格の神)の内住が与えられます。その御力によって信徒は神の御心に適わないことを行ったとき強烈な“痛み”を体験します(これは、未信徒のままでは決して分からない、聖書が真理である確証です)。そのことで結果的に(大祭司イエスによって成就した“祭儀規定”を除く)旧約の律法は、段々と踏襲できるようになります。そればかりか“より細かな罪”にも気付くようになるのです。このことは“福音の三要素”を「本当に(正しく)信ずること」で成り立ちます。ですから、聖書全体の信仰、特に“三位一体”(三位一称)における「聖霊が第三位格の神である」ことを信じることは必須です。

§:私自身の経験では、1)ナザレのイエスが私たちの罪のために死なれ,2)墓に葬られ,3)三日目に甦られた,という“福音の三要素”を信じても「本当の救い」は始まりませんでした。どうしてかというと“聖書の御教え”通り「聖霊の内住」は既に与えられていたのに「その御教えを義しく信じていなかった」からです。この三要素は、1)“歴史書”のアダムから続く罪を[聖霊]によって生まれた罪なきイエスが転嫁される形で背負ってくださり,2)“預言書”の通り、[キリスト]が「人間としての死」という受難を辿って罪を滅ぼされ,3)“黙示録”における復活の初穂となられて[父なる神]の勝利をあらわした,という聖書全体の理解によって成り立っているのです。その理解が出来てから既在の「御霊の律法」が実感できるようになりました。それは“恵みの教理”の本質が「聖書の体験的な理解」という導きにあったからに他なりません。

§:恵みを放縦に変えることが起こるのは「性欲をどう扱うか」という点にあると言ってもいいのではないでしょうか。私自身は、そこにずっと躓いていました。このことについては間違ったことを言ってしまうと大変なことになるので、あくまでも「各人が聖霊の御声によって判断することが基本である」という前提でお話しします。聖書の解釈においての原則は、1)文脈に沿って字義通りに読む(歴史的な背景があるとなお良い),2)書かれていることを越えない(聖書の解釈は聖句に基づいて行う),3)書かれていないことは「無記述」という書かれ方をしている(ゆえに祈りによって判断する),概ねこの三点だと言えます。“生理欲求”については、個人的には「自慰行為について聖書に“無記述”されているのは“排泄行為”であるから」と判断しました。自慰はその性質上、支配欲を本質とする“貪り”との境界が非常に曖昧です。しかし、視覚的な刺激を最小限に抑えることで“不自然な禁欲”をやめてからの私は、結果的にポルノ動画の依存を抜け出せました。不意に陥る罪では痛む“聖霊の悲しみ”もここでは感じません。一信徒の体験談ですが、ヒントにしてみてください。

Ω:貪りは、相手を支配しようとする我欲です。愛は、端的に言うと“相手に支配されようとする”遜りです。つまり「相手に愛して欲しい」という“受動的ベクトル”が愛の本質であるということです。恵みというのは、神が一方的に与えてくださるギフトです。その初めにして最高のものが福音というグッドニュースです。だから「このような私を神は愛して下さった(「わたしの愛に気づきなさい」と招いて下さった)」のだから「神様にもっと愛してほしい」と“聖書に生きる”ことが孝行なのです。性欲は、しばしば自己の本能を満たすための“モノ”として人を扱います。だから支配欲であり貪りなのです。結婚という“愛の契約”を結んだうえでの性愛が認められているのは、その行為がパートナーを“結婚相手”として見ているからです。ただ、そのような愛によって子をもうけるために祝福として“性機能”が与えられたのも事実です。私は“はたらき人”として独身でいようと思っているので、祝福を「誤用しない」ように御声と対話しながら、祈りと恵みによる信仰生活を実践していきたいと思います。

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