4.終始と三項

情報。(参考→IIペテ3:15-16,イザ53:6)

§α:情報過多の時代にあって、どのように行動すべきか。SNSが普及してからメディアの偏重報道が暴かれるとともに「情報が誤っている」という“情報”にも肯定派と否定派が現れ、混乱してしまうことが増えたように思う。それに加え、オープンな情報空間は「自由な発言」を確かに可能にはしたが、自分の立場を表明したうえで発言する論者に対して“口撃”することも許可してしまったように映る。

§A:どのような情報媒体であっても、自分が「おかしい」と思う“直感”は大事にしたほうがよい。人々が情報を元に動く以上、その利用には往々にして“洗脳的”な要素を伴う。多くの賛同者がいるからとて、その全てが正しいとは限らない。そして、批判が“数の圧力”を伴うと刃物になることも、持つべき責任として自覚すべきだ。

§B:“読みやすい文章”は手軽である。しかし、情報については頷いて満足するだけならば、あまり意味を為さない。既知のものについて同調して満足するというのは、自己を硬直化させるばかりである(先の“洗脳的”という言葉の意味)。とりわけ、SNSで発信される短文というのは情報元や典拠がないことが非常に多い。“娯楽”として楽しむならよいが、あらゆるカテゴリーが混在した中でネットサーフィン(この言葉自体、いまや聞かなくなった)を“遊び”の範疇にとどめるのは、もはや容易ではない。情報の手に入る“早さ”は“軽率さ”と紙一重であり、賛同の意思表示が“簡易”なのは“危険”をはらむ。

§C:わかりやすい文章を書くのは紛れもなく技術である。しかし、「(そういった)内容を代価として軽薄にしてしまう」のはまずい。偉そうに言うことはできないが“本嫌い”だった私は多くの哲学書を読んで“論が立っている”ことの力を知った。“難しい文章”は「読みにくい」ものではない。そうではなくて「理解に時間がかかる」ものである。それこそは“読み手に考えさせる”ことを求めているのであり「理解してほしい」という著者の声にして愛なのである。だから、遠回りに思えても難解にみえる書を積極的に読むべきだ。そうすると「自分が据わり」情報過多にあっても“本質”がみえてくるというのが、個人的に共有したい体験談である。

§Ω:何かを“意図して”発信するときには、自分がどのような立場にあるか表明すべきだ。そして、情報に賛同するのも意思表示の発信である。誹謗中傷というものが、どうして“凶器”かと言えば「相手が見えない」からである。たとえば、「俺は〇〇の理由で無神論者だ」という旨のプロフィールをもった者から私が何か言われたら、それは“意見”だと捉える。しかし、立場を表明しない者は(無意識に、したがって意図なしに、)“感想”を言っているに過ぎない。私が非常に困難な聖書の通読をことさらに勧める理由は「発話者が立場を表明したメッセージ」という“基本にして最重要の書き方”が踏襲され、しかも読む時点で我々を篩にかける(洗脳ではない意思を求める)からである。そしてそのゆえに、先の理由(→C)も相まって、物事の本質が見えるようになるためだ。それこそが“発話者”たる神の意図である。

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