2.聖句の悦び

惜しむ。(参考→ヨナ4:10‐11)

『オバデヤ書』の次に置かれた『ヨナ書』 。

聖書に触れることがない人も、預言者ヨナが大きな魚に呑まれたエピソードをご存知の方は多いのではないでしょうか。

あるいは、ピノキオとゼペット爺さんが鯨に飲み込まれるシーン。

あれは、この巻がモデルになっているとも言われています。

(聖書が西洋世界に与えた影響は計り知れず、文化のいたる所にみられます。大変趣深いです)

さて、ヨナがどうして大魚に呑まれたかといいますと、

神によって召された彼は、ニネベという異邦の地に宣教を命ぜられたのですが、

「イスラエルの民だけが救いに与るべきだ」と反抗したのです。

それで船が難破して、原因がヨナの反抗にあると判ると、

海に落ちることとなりました(ここでは敢えて割愛しますが、この際の船員とのやり取りも、ぜひ読んでみてください)。

着水するとともに、魚の体内に入ることとなったヨナ。

その間、心からの祈りを続けた彼。

三日の後、浜辺に吐き出されました。

この“三日間”の暗闇での時間は、キリストが贖いの死から“三日目”に甦ることの予表です。

数多ある“旧約が新約と合致する証”の一つであり、その整合性の根拠でもあります。

さあ、そうして渋々、ニネベに向かったヨナですが、

この異邦の地での宣教は、彼の心境とは裏腹に、うまくいきました。

ふてくされた彼は、そこで、神の慈愛に触れます。

それが、今回の箇所です。

ヨナが暑さに耐えかねていると、神は唐胡麻を生え出させ、それを日陰としました。

彼は、そのことに喜びましたが、しばらくすると、枯れてしまいました。

そこで、不満を漏らすと、

神は、

<一本の唐胡麻をあなたが惜しむならば、わたしが大勢の異邦人を憐れむのは当然だ>

という趣旨の諭しをしました。

分かりやすい物語の中に、論理的な確かさと大いなる希望が含まれています。

異邦人への宣教は、新約聖書の使徒(いわば、神の代理人)たちから始まっていきますが、

旧約において既に、それを見据えた神の御心があらわれていたということです。

今も、ユダヤ教徒は、救いを占有的に捉えていますが、

“愛なる神”のご意志は、ヨナとのやり取りの通り。

とはいえ、キリスト教も、“選民思想”を受け継いでいる側面が多いかもしれません。

クリスチャンは、伝道活動に励みます。

それは確かです。

しかし、私の目には、彼らの多くが、

「“我々は救われています”。あなたがたも救われましょう」

という“自分の救いありき”な姿勢を取っているように見えてならないのです。

それは果たして“心からの隣人愛”でしょうか。

「あなたがた(すべての未信徒)が救われなければ、私の救いはない」。

そういう志で、はたらきをしてゆくべきではないでしょうか。

わかります。

救いの感覚は、説明できても、証明できません。

個人が体験する他ないのです。

だから、

「救われるって素晴らしいよ」

というアプローチになりがちなことは。

でも、それが、

「信仰の押し付け」

なんていう悲しい言葉をつくり出してしまっている。

非常に難しいことですし、

私の取り組みも、そういうメッセージに伝わってしまっている部分があると思います。

だから、

「聖書って、“正しく読むと”面白いよ」

ということを一番に据え、伝えていけたら

と思っています。

そこからどのようなものを得るかは、個人に任せたらいいのです。

すべては恵みによります。

そして、異邦の民さえも、神は重んじておられる。

ならば、御心のままになるでしょう。

神にとり、唐胡麻よりも遥かに大切な人間なれば。

今日はここまでです。ありがとうございました。

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