『オバデヤ書』の次に置かれた『ヨナ書』 。
聖書に触れることがない人も、預言者ヨナが大きな魚に呑まれたエピソードをご存知の方は多いのではないでしょうか。
あるいは、ピノキオとゼペット爺さんが鯨に飲み込まれるシーン。
あれは、この巻がモデルになっているとも言われています。
(聖書が西洋世界に与えた影響は計り知れず、文化のいたる所にみられます。大変趣深いです)
さて、ヨナがどうして大魚に呑まれたかといいますと、
神によって召された彼は、ニネベという異邦の地に宣教を命ぜられたのですが、
「イスラエルの民だけが救いに与るべきだ」と反抗したのです。
それで船が難破して、原因がヨナの反抗にあると判ると、
海に落ちることとなりました(ここでは敢えて割愛しますが、この際の船員とのやり取りも、ぜひ読んでみてください)。
着水するとともに、魚の体内に入ることとなったヨナ。
その間、心からの祈りを続けた彼。
三日の後、浜辺に吐き出されました。
この“三日間”の暗闇での時間は、キリストが贖いの死から“三日目”に甦ることの予表です。
数多ある“旧約が新約と合致する証”の一つであり、その整合性の根拠でもあります。
さあ、そうして渋々、ニネベに向かったヨナですが、
この異邦の地での宣教は、彼の心境とは裏腹に、うまくいきました。
ふてくされた彼は、そこで、神の慈愛に触れます。
それが、今回の箇所です。
ヨナが暑さに耐えかねていると、神は唐胡麻を生え出させ、それを日陰としました。
彼は、そのことに喜びましたが、しばらくすると、枯れてしまいました。
そこで、不満を漏らすと、
神は、
<一本の唐胡麻をあなたが惜しむならば、わたしが大勢の異邦人を憐れむのは当然だ>
という趣旨の諭しをしました。
分かりやすい物語の中に、論理的な確かさと大いなる希望が含まれています。
異邦人への宣教は、新約聖書の使徒(いわば、神の代理人)たちから始まっていきますが、
旧約において既に、それを見据えた神の御心があらわれていたということです。
今も、ユダヤ教徒は、救いを占有的に捉えていますが、
“愛なる神”のご意志は、ヨナとのやり取りの通り。
とはいえ、キリスト教も、“選民思想”を受け継いでいる側面が多いかもしれません。
クリスチャンは、伝道活動に励みます。
それは確かです。
しかし、私の目には、彼らの多くが、
「“我々は救われています”。あなたがたも救われましょう」
という“自分の救いありき”な姿勢を取っているように見えてならないのです。
それは果たして“心からの隣人愛”でしょうか。
「あなたがた(すべての未信徒)が救われなければ、私の救いはない」。
そういう志で、はたらきをしてゆくべきではないでしょうか。
わかります。
救いの感覚は、説明できても、証明できません。
個人が体験する他ないのです。
だから、
「救われるって素晴らしいよ」
というアプローチになりがちなことは。
でも、それが、
「信仰の押し付け」
なんていう悲しい言葉をつくり出してしまっている。
非常に難しいことですし、
私の取り組みも、そういうメッセージに伝わってしまっている部分があると思います。
だから、
「聖書って、“正しく読むと”面白いよ」
ということを一番に据え、伝えていけたら
と思っています。
そこからどのようなものを得るかは、個人に任せたらいいのです。
すべては恵みによります。
そして、異邦の民さえも、神は重んじておられる。
ならば、御心のままになるでしょう。
神にとり、唐胡麻よりも遥かに大切な人間なれば。
今日はここまでです。ありがとうございました。