3.威張るブログ

意識と罪。(参考→ロマ14:23,IIサム1:12)

1.序論

a)舌打ち

→タンスの角に足の小指をぶつけて舌打ちをすることは罪か否か。「細かいなぁ」という声が聞こえてきそうだが、いや、これは非常に大切なことである。聖書に言葉としては出てこないが、主イエスに似た者となってゆく信徒の霊的な成長を神学用語で「聖化」と言う。この過程においては、本当に細かい次元から自己吟味していくのが大切なのだ。なぜなら「わずかなパン種が全体を醗酵させる」ためであり、未信徒だった時には気にもとめなかった点にこそ改める余地があるからだ。私などはとりわけ最近、自身の内から膿のように表出する罪に対して驚きながらも、成長の好機だと喜んでもいる。

b)意志

→聖書全体は「完璧な神からの愛に対して、不完全な人間が自由意志を以ってどう反応するか」というテーマによって貫かれており要約もこの一句に尽きる、との主張は言い過ぎではないだろう。この前提に基づくと、人間の不完全-すなわち罪-は自由意志と密接に関わっていることがみえてくる。

2.本論

c)反射

→人間が反射的に行うことは“習慣”と言い換えることもできよう。しかし、“習慣”には二種類あることを確認しなければならない。すなわち、①生理的習慣,②嗜好的習慣,である。前者は「手を洗う」などの類(工事に伴う断水のことを思い出すと、よく分かるだろう)で、後者は「コーヒーを飲む」といったものである。この二者において、①にはほとんど意識がはたらいていない(生存のための受動的性質)が、②には多分に意識がはたらいている(充足のための能動的性質)ことを抑える必要がある。つまり「嗜好的習慣には意識が介在しているから罪に陥りやすい」ということである(α;もちろん、舌打ちが癖になっていたら直したほうが良いだろう。しかし、舌を抑えたとて突発的な怒りをなくそうと頑張れないのは方向性を間違えているというのが、本論考の主旨である)。

d)グレーゾーン

→難しいのは、生理的習慣と嗜好的習慣の間にあるような事柄である。①自慰,②暴食,などである。これらは往々にして“貪り”(支配欲求)に寄っていく可能性があるからして、いくら気をつけても注意しすぎることはない。先にαで述べたことが重要なのは「怒らないようにしよう」と決める時には“怒り”があって、「情欲をなくそう」と戒めるときには“情欲”を知っているからである。つまり、「~しないようにしよう」という行動原理だと、罪はそれを橋頭堡(上陸拠点という軍事用語)にして攻め入ってくるのである。だから「自分のしていることを生理欲求の範囲内にとどめる(可能な限り寄せる)」ことが非常に重要だと私は考えるのだ。

3.結論

e)どうすればよいか

→罪についての判断が“事前に”危うい時には、自分のしていることが意思(“意識”ではない)に基づいていることを確認したうえで、貪り(自己愛による支配欲)かどうかを判断すればよいというのが、ひとまずの個人的な回答である。ここでは“事前に”というのが味噌である。なぜなら、そこで気づかなかった場合は事後に聖霊の導きによって罪だと判明する(矯正を受ける)からである。どうして前もっての判断が大事かというと、聖霊が悲しまれるのは辛いことだからである。そして、聖霊の導きという恵みに依ること自体は素晴らしいが、自己の責任を蔑ろにすると霊的バランスを崩し御声が聞こえなくなる可能性を忘れてはならない。救いを失うことはあり得ないが、救いを失ったと勘違いすることはあり得る。そして、その悲しい誤解は、神でなく自分の欲求を優先してしまうことからくる。信仰生活で躓き絶望するのは、救い(信仰による神とのつながり)を失っていないからこそであるが、そういった苦しみは経験せずに、いつも悦んでいたほうがよい。自戒としての意味も込めて、この論考を残しておきたい。

-3.威張るブログ
-